324 肉料理:----・------(116)
(……いや、知っているのだろうな)
陥落する恐怖、始まってしまう恐怖。受け入れてしまう恐怖。様々な恐怖を知る私以上に、かくあるべき理想を持っているのだから。
新しい術着に袖を通しながら、自分を「大主教」として規定する。これが私のかくあるべき姿であると決定的になるように気を引き締める。デクランがそ知らぬ顔で振り返った。
『まずは受血を再開しましょう。昏睡状態ですが、心臓は動いている』
ーー
龍下の口に器具を納めていく男が、埃ひとつ舞うのを嫌って息を止めている。持ち手以外を口腔に入れ込むと区切りがついたのか、前屈みになっていた上肢を大きく引き離して、留めていた息を吐きだした。緊張と相殺させる深い息は、うぷ、と過剰に胃の中の物を出しかける。慌てて口を結ぶ若者に隣の男が肘を突き当てて、『上手でしたよ』と気安く手際を褒める。男は『はい!』と真面目に返答を声に出した。普段からこうしたやりとりが繰り返されていると表現される。まるで子供の学校だ。若い男女が弟子なら、デクラン・マッケナは師なのだろう。
デクラン・マッケナは穏やかに笑んでいた。殺気溢れる冷めた顔はどこへ行ったかと思う程、声色は柔らかく、龍下の体を前にしても勝手知ったと歩いているところをみれば、普段からこのように容易く"禁忌を犯して"きたことが窺える。男の隣には一人分の隙間が空き、そこに衣服を整えた大主教が立った。彼もまた罪人なのだ。
龍下のまわりに立つ者はみな善い行いをするような風情で、細い器具を握り、躊躇いもなく龍下の体に傷をつけていく。どんなに残酷なものに映っても、異を唱えられる者はいない。
再び大型の装置がうねりを上げ始め、龍下の体に複数の管が繋がれていく様を一人の審問官が茫然と眺めている。金属の音、指示を出す声、専門的な言葉の数々が不可視の壁となって龍下を隔離してしまう。
体と体の間に唯一見えた片頬を凝視して、穏やかさが疑いもなくあることに気づいた。まるで午睡のまどろみにあるようだ。狼狽する者の気を慰める優しさと愛が封じ込められている。しかし皮膚を突いても体勢を変えても何の反応も見えない体は、死者特有の白色を得ていた。肉が分離し、骨が露見し、死を感じさせるというのに顔だけがなお明るい。
『まだ飲ませていないのか。いい加減呆れ果てるぞ』
片手で意識のない同胞を引きずり、マッケナがずかずかとそばに寄ってくる。友を抱いたまま身を引くも、奪われる方が早かった。靴先で追いすがる手を蹴り飛ばすと、首根を強引に掴み上げて、物のように検分する。舌打ちをしてから、ようやく治癒術を詠唱する。理力光が男の身の内より生じて、やがて首根を吊られる二人の男の体に入った。光はきらきらと無垢に輝き、低級理術しか使用できない審問官のものより、高等であることは相違なかった。
『ここで葬式をされては困る。入ってきた時の勢いで、さっさと退室願おう』
『悪魔…!』
『はて』
声を避けて室内を巡らせる顔は、また審問官の元へ戻ってきた。『随分遅い名乗りよ。誰に聞かせるつもりかと思ったぞ』
マッケナは快活な声で他の者を呼び寄せた。
『これらを連れて行け。喉を塞ぎ、監視せよ』
従う若者が近づいてくる。何の疑いもない侮蔑の目は審問官の胸をきつく貫いた。自分が正しいを思いこむ者ども。
(―――殺してやりたい。殺してやりたい。殺して…!!)
禁忌を肯定する者どもを。龍下を傷つけたヴァンダールを。過剰な行動を正当化するマッケナを。そして何より私を殺してやりたかった。自分を呪う暗示で、果たすことができれば良かった。けれど死を念じている間は、マッケナの術が友を癒していくのを見ずに済んだ。その事を意識すれば吐き気が喉元をせり上がった。
いっそ自分が傷つけばよかったのだ。刹那に鋭い嫌悪が増していく。ヴァンダールにも、シュナフにも、マッケナにも、そして自分にも、憎悪があちこちに揺らいでいる――。
…
―――審問官は死を心の底から望んでいたが、真に死を賜るべきなのは自分であるのかシュナフであるのかは定めてはいなかった。心は曇り、厚い暗雲に覆われている。同胞たち共々ひとところに押し込められ、円座するその周囲を更にシュナフの者が立ち塞がっている。治癒を施されても起き上がる気力も機会もないまま、時が経つと、貴賓室の扉にしみが浮かび上がった。術式だ。扉に触れることもできず、番人を買って出ていたマッケナは粉砕しようと試みるも、反動で負傷するだけだった。中から怒鳴り声が聴こえる。部屋の中で何かが始まっている。
やがて、扉の封印が解かれるや否や気が違ったかのように走り込んだマッケナの背越しに、二つの死者を見た。廊下に留めようとする手を振り払い、龍下の御身体に駆け寄る同胞達と、審問官はぶつかりながら、よろめくようにしてその場に立っていた。
大主教が抱いているのはデクラン・マッケナに他ならない。背中に食い込んだ短剣は、腹までも血塗れにしている。あぁ、助からないのか。理術をもってしても、シュナフ大主教でさえも助ける事ができないのだ。執着していた禁忌でも。何も。
段々と飲み込めて来ると審問官は、自分が晴れ晴れとした顔で笑い、片目から大粒の涙を流していることに気づいた。そして言わずにはいられなかった。
『神は見て下さっている!』
ーー
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