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32 暗雲に覗く過日と、

「非礼をお許しください、コーンウェル・デムラン監督官」


雪原を寒風が吹きすさび、飛雪が粉々になって、未だ咲きならぬ白花の樹を泣かせている。目の前の現れたのは、そんな場景から現れたような女だった。

自然の美観を前にして、コーンウェルは息を忘れる。


乳白色の手が差し出された。男ははっとしながら立ち上がると、机をまわり彼女の手を取る。途中、机の角を思い切り蹴り上げた。脛がじくじくと痛んだが、白い手の甲を額に軽く押し当てる教会式の挨拶を済ませる。口に煙草をくわえたままなことに気づいたがどうにもならない。途端にぎこちなくなった体を軋ませながら顔をあげると、濁りのない清らかな視線が注がれていた。


彼女はコーンウェルの前髪をかきわける。


「治癒を施しました。傷は残っていません。脛も、もう痛みはないでしょう?」

「え? え、あッ? あのっ!」


額を手で擦り、にじり寄りすぎていた体を半歩退き、煙草を灰皿に押し付けた。体をまさぐって確かめたあと早口で感謝を述べて、意識して口を閉じる。


平静でいられるわけがない――コーンウェルは目の前にいるのが誰か知っていた。教会に勤めていれば、知らぬわけがない。誰も彼もが、夢から醒めぬように彼女を知っている。―――彼女は【    】なのだから。


(あの……………、……あのリーリート・ロラインか)


かつて、ここではない農村で――青い葬列の中にいる彼女を、見ていた。


コーンウェルは必死に頭を振った。

今そんな事を考えている場合ではないはずだ―――目線を引き剥がし、まともに頭を働かせる。


「…どうして貴方がこちらに。どなたかのご下命ですか、それにどうやって、今」

「誰の命でもありません。ここには理力で参りました」


彼女が後ろを向く。まとめ上げられた白髪と細い首筋にどうしても目が行く。

やはりもう三歩ほど離れるべきだと眉間に深い皺を寄せていたコーンウェルの目に尖筆が留まった。「は」、思考が停止する。彼女の白い髪に尖筆が刺さっていた。


―――見間違いか? 凝視する。いや本当に尖筆だ。絹のような髪をまとめ上げているのは、どこにでもある筆記用具だった。


唖然としている内に、男は段々と平静を取り戻した。混乱も極まると落ち着くらしい。いや、勝手に困惑していたに過ぎないが。

その時コーンウェルはようやく、これは正式訪問ではないのだと思い至った。

彼女は棚に並ぶ調度品の中から花瓶を手に取った。


「この花瓶の中に、私の理力を保存した鉱石が入っています。花瓶の中の石を媒介に、遠方にいる発動者をもう片方の石の前に移送することができます。そちらの木箱と似た原理ですが、希石が必要なことや理力の消費量が多いことから量産には至っていません。限定的に設置して何かあれば転移がおこなえるようにしています。この前のように龍下の要望があれば共に移動することもできますから。花を活けておくと理力保存効率が向上するので、徒花を挿しておいてくださると助かります」

「ど、どうしてこんな末方の男の名をご存じなのですか」

「聖堂で審理がありますから。鉱山の話題になった折に、公証人はよく貴方の話をなさいます。シュナフ大主教も、貴方ほど信の置ける方はないとおっしゃっておいでです。ねじれ角を持つウリアル族の監督官…いつかお逢いしたいと思っておりました」

「それは……身に余るお言葉。長く、長く私の嚮後の心得になりましょう……」


コーンウェルは俯き、歯を食いしばると裏側を舌で舐めた。顔を背けるなどとは礼儀が欠けた振舞いだが、崩れた顔を彼女に見られまいと必死だった。


つい先日、彼女が龍下とともに突然採掘場に現れた日のことが思い出された。


あの日コーンウェルは港で仕事をしており、龍下の訪問があったと知った時には既に龍下は坑道の見学を終えて、坑道入口というただの荒れた大地の上で鉱夫たちに囲まれていらした。鉱夫たちは拝んだり、泣いたり、聞きもしない身の上話を始めるなどして龍下の眼前を汚している。コーンウェルは今すぐに怒鳴り散らして、龍下をどこか整った居心地のいい場所に招きたかったが、同時に恐れ多く、膝を折って見守ることしかできなかった。


龍下のまわりには従者の姿も無ければ、左肩に上衣をかけた執行部の姿もない。ただ一人、白衣の女性のみが傍にいて、ゆっくり頷いていた。外套を目深に被っていたため顔のありさまを確かめることはできなかったが、穏やかに笑む口元が印象に残った。


(……ボイエスの親方は学者が一緒にきたって……あれが、あれがこの方だったのか…!)


今更符合した諸々に、驚きや怒り、戸惑いや混乱がコーンウェルの頭の中で暴れまわった。彼女は男の機嫌を悟り、声を落として謝った。


「…申し訳ありません、御心を乱すばかりですね。今日転移して参りましたのは、龍下の再訪を伝える触れ役としてではありません。気掛かりがひとつ……」


彼女はそこで言葉を区切ると、机上の通信用木箱を見た。


「……コーンウェルさん、大主教に報告をした事柄がもし苦境なら、私にその苦悩を与えていただけませんか」


この言葉にどれほどの意味が込められているのだろう。一篇たりとも触れる事ができないと、壮麗さの前に己の小ささを自覚する。彼女は静かに佇んでいる。その眼には、何の色も浮かんでいなかった。自身はどこか遠くに去っている―――コーンウェルの頭に、あの日の言葉が響いた。


罪の許しが宣言され、最後の祈りが唱えられている。

教会に戻っていく青い葬列の中で、彼女は濡れた指を折り重ねてただ一つの言葉を繰り返していた。


――――あなたの道を歩ませてください。


重たい雲が採掘場の真上を塞ぎ始めた。コーンウェルは無意識に首飾りを握りしめていた。






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