318 肉料理:----・------(110)
『……身勝手な信仰とおっしゃいますが、貴方が感じられたのは信頼なのではありませんか? 信仰と信頼はひと続きであるだけで同一ではありません。そして"信頼"は流動的なものであると思っています』
『続けて』
『人は所属する集団に影響されて、そのなかで自分だけの目標を持ちます。大主教や審問官という職位も、集団の中でだけ効力があり、集団の中にいる限り責任と職務が強制的に発生します。日々の教務や個人的な展望を個人目標と分類した場合、教会という集団が掲げる理念――"愛の永遠性希求"は集団目標といえるでしょう。お話にあった二人は自らの理念の障害となる誤解や過ちを見直し、意見を認められたい、話を聞いて欲しいという欲求を満たしてくれた大主教と心理的距離を近づけた。集団の輪の中で個人目標を達成するためには集団の力が不可欠であると理解し、他者に強制したり依存した状態での目標達成は叶わないとも理解した。意見を押しつけ合うのではなく、互いに対等の立場で社会に参画するという"最初の"あるべき形に戻ることができた。大主教は分散していた個人目標を詳らかにして、市民の為の政治という一致した集団目標に向かうように二人の思想の結合過程を遡って修正した。貴方が見たのは集団の再形成の側面といえるものでしょう。例え大主教に傾倒するようになったとしても、信仰という集団目標は揺らがず、愛情――個人目標が変化したという…ことに………』
『……しかしながら?』
彼は思考整理を待つ余裕を見せながら私の言葉を促す。私は虚空を見つめ、頭の中で思考の尻尾を掴もうと手を前に伸ばしながら走っていた。今考えねば、霧散して生涯届かないように思えたのだ。
『貴方の話は部分的だ……前大主教の話術だけで思想を曲げたとは到底思えません。成人した男の欲求の強度は高い。まして自己評価の高い派閥代表であれば強い親和や上位者の褒め言葉だけでは動かない。何か褒賞がなければ…………まさか』
大主教は嫣然と微笑んだ。私が思考迷路の端まで歩き抜けたことに満足している。そう笑みが告げている。私達は言葉もなく通じ合った。
愕然とする私を余所に、大主教は最愛を抱き寄せるように広げた片腕で、花瓶から一輪の花を引き抜く。立ちのぼる芳香を楽しむ仕草を、私はまともに見ていられなかった。
鼻先をかすめる白い花弁が、広間で見た少女の薄衣を呼び起こす―――これはこじつけとも言える連想であったが、純白が強烈に思考に焼き付いた。誰も肯定も否定もできない。ただの妄想ともいえるし、アクエレイルで起こっていた事が、他領で起こっていた可能性を示唆する光景でもある。
何が正しいか、何が真実か。答えはここにはない。だというのに、彼の優雅な仕草は、私に思考の"手綱"をつけてしまった。彼に制圧されることは歓迎すべきことではない。ないが、何をしても彼の思うままに動く気がしてならなかった。
その口がまた何かを言う前に、私は自論をすべりこませる事で圧力を躱そうと試みる。何か言葉を聞いてしまえば大主教の声だけが頭を占めるような気がした。それは既に目に見えぬ呪縛にかかった証でもあった。
『私は何といわれようと、教会の教えに背く者を容認しません』
『それが君の個人目標というわけだ。では、問おう。教会の教えに背く者が罪人、守る者が"善き教徒"であるか』
『問答を拒絶します。ここで修学会を開くつもりはありません。私を無言で泣かせたいというのなら、希望に沿う事はできません』
『私を前にすると人は勝手に泣き始める。問答を始めたのは君だ。君の尊ぶ規律に照らし合わせれば、龍下は"善き教徒"から脱落するだろうか、教えてくれ』
私達の周囲で時が止まったような錯覚を覚える。全員が息を止め、なんと答えるのか耳を澄ませている。泣き言ひとつ洩らせない圧力がかかるなか、きっとこの男にとって、私がここで何と答えるかは重要ではないのだろうと察していた。問いに答えるのは私ではなく、誰でもいいのだ。私は彼の目をみながら『はい』とはっきりと答えた。
『その一言に敬意を表する。私も同意見だ。龍下は罪人であると、私も言おう』
純白の花を私の胸元に挿しこむ。大主教の手を叩き落とす事はできない。彼は自由に毒を含ませる事が出来る。私に。
『では、龍下を救おうとした私達と、不躾に乱入してきた君達の違いも教えて欲しい』
『……禁忌です』
『もっと詳細に形容しよう。手術と理術だ。手法が異なるだけで、命を助けたいという気持ちに変わりはない』
『人が通ってしかるべき道というものがございます』




