313 肉料理:----・------(105)
さすがに何も答えられず沈黙が生じた。聞かせて良い話ではないと思うものの、口にすると憚られることを音にすれば快感を得た。恥をさらすことは若さを失った老人がもつ最後の特権だとでもいうように私の心は居直っている。めずらしく踏み込んだ話をして吐きだせる事が嬉しく、同時に空しさも味わう。
男は遠慮なく入り込んできた言葉にまだ目を見開いている。死を決した私が助命も示さずに、恥を注ぎ込もうというのだから、快楽と矜持の混同を許さぬ気高さをもって私の過去を退けたはずだ。本来の彼であればそうした。私とて、このような告白は胸に秘めておけと窘めるだろう。内情をさらせばさらすだけ弱みを与える事になるのだから。
目の前にあるのは悲しみの頂点にさしかかった顔だった。審問官としていつも確たる判定を下し続ける顔が、自己の閾際で膝をついてしまっている。決して一線を越えぬ男の性が揺らいで、こちらへ来ようとしているのが見えるのだ。
彼自身の平静からあまりに遠い顔を衆目にさらすことは私の気持ちが許さなかった。身を横にして背後の視線を遮ってやっても、なるたけ平淡な表情を取り繕おうとした彼は小指一つ動かすまで時間を要した。
影の中に男を隠しながら私は汚濁を吐き続ける。
「採光もない埃だらけの屋根裏は蒸し暑くてな。水も与えられず、食事もない。自分の塩辛いものを口にして一節を凌いだ」
身の内で燃やし続けていた火は、青い炎となって揺らめいていた。胸に炎をさらして、放って、放って。するとすなわち、男は火矢を受ける。燃える男を、取り澄ました顔で眺めている。
「……知りませんでした」
彼はようやくこちらを見上げた。憐れみと困惑が混じる美しい顔に、もう一矢放つ。
「デクランにも同じ痣があった」
「……は」たまらずに漏れた一音に、相応の一撃を受けたことを知る。
「あの一族は男子の躾にそういったことを用いる。幼い頃は私だけが忌み嫌われていると思っていたが、そうではなかったと知った。少し前のことだ」
不意に甦った過去に嘔吐して、絨毯にへばりつきながら泣くこともあったが、若さゆえに持った葛藤であり、とうに過ぎ去ったことだ。今はすでに何の感情も湧きはしない。あの行為を強いられていたのは今の私ではなく、過去の私であり、確かに心は深い傷を負ったのだろうが、昂然と斥ける気力があった。
弟も同じ傷痕を持ちながら、歪まずに育っていた。その苦しみや痛みを売り物にして生きようとはしておらず、一つの臭みとして受け入れて、安穏とした男を演じていた。私達は似ている。そう思うと、自分を水の中に沈める心地良さに似たものが溢れた。
――『にいさん』
雪原の只中に在る私を呼ぶ声がある。悪夢のごとき雄叫びは穏やかな声に変わり、シュナフの全身を包む。
(あぁデクラン――ずっと私を呼び続けていたのは、お前だったのだな)
帰る場所がない私に、拠り所を与えようとしてくれる。原野でまことに辛気臭い顔をして突っ立っている男の隣にはべり、純粋な笑みを浮かべてくれる。互いの手首に残る躾けられた記憶は、貴い勲章と変容して、やがて「兄弟のはじまり」と「兄弟のおわり」を繋ぎ合わせる。そこに死は介在しない。
(空しい児戯だな……だが)
「悔いはない。そうする事だけが私の意に叶っていた」
「……」
「機を逸するべきではないと思った」
「私は貴方の棺は引きません。絶対に、引きません」
男は瞑目して何もかもを閉めだそうという女のような弱い拒絶をみせていた。彼も"選ばれなかった"者になってしまったのだ。そうせしめたのは私だ。そうあって欲しかったからだ。私は彼だけを焼いた。彼だけに火を射かけた。私という死んでいるような男に傾倒したばかりに互いに悲惨な余生を過ごすこの男を、永久に傷つけるために。
沈黙した男を背に隠し、衆目と向かい合う。大抵気分の悪い薄暗い顔をしているが、私と目が合うとちらりと瞬いて血の気の多い顔をする。判断のすべてを委ねられると「勝手に生きろ」と言いたくなるものだが、意外に弱いもので愛してしまっていた。私を頼りにし、見捨てないでと泣き、怒る弱者を労わる癖が抜けない。私もまた弱者であるゆえの特質だろう。
たまらず一人が名前を呼び始め、連呼されると脅迫じみたものを感じる。求められているのは合法的な行動だけをする私であり、屋根裏の深淵に追いやられていた子供ではない。
さて、デクラン。我が弟よ。
私はもうしばらく不自由でいることにした。残されたのは劣る男ばかりだが、あとは行きつくところまで行くだけとなった。気が楽だ。
最後の手紙でも本心を結べずに終わる私は、もう少しこちらで人の運命を左右していようと思う。死んでくれるのを待つことはない。少し時間がかかるが、好きに暮らしていればいい。私達はいずれまた巡り合える。
(――それまでは不均質の揺り籠で眠れ、弟よ)
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