303 肉料理:----・------(95)
心模様までは口出しせぬとマッケナの老躯が去ると、おのずと静寂が訪れる。手術に及ぶ領主の姿や忙しく出入りする従者、床に座り込む参謀格の息遣いなど、コーンウェルの周囲には絶えず音があったが、覚悟を得た筈の耳は再び何の音も拾わなくなった。
体は重く、緩慢で、自分の物でないような気がした。まるで踏みしだかれたあとの麦藁のように非力で、自分を守る術ひとつない。上肢を壁に擦りつけながら立ち上がり、いざ出口に向かおうとする。向かおうとしたのだ。仕事をすると言った手前、やらねばならぬと心が告げている。それなのに体は何一ついう事を聞かない。足を動かせ、歩け、と思うと感情が激しくなり、鼓動がけたたましく脈打ち始める。拒んでいる。どうして――
『怖いんだ、とても』
―――頭の中でデクランの声が聴こえた。あれほど拒んでいた首が動き、吸い付くように彼の方を見てしまう。もはや喪われたことを誰よりもわかっているはずの目は、寝台からだらりと落ちる手を見て慄くのだ。なんともままならぬ弱い性だ。何かの拍子に息を吹き返すのではないかと考えてしまう。大主教が処置を続ける間、にべもなく放り出される手がかくかくと跳ねる。"もしも"を探しあぐねて彷徨う目は、いかにも逝ってしまった友の姿に現実を突きつけられ易々と霞む。
(こんな終わりは……面白くない。これでは本当に生きるとは面白いと言えぬことばかりじゃないか……なぁデクラン……)
親友から医術という禁忌の道を歩みたいと打ち明けられた時、コーンウェルはそんな事むざむざと言葉にしなくていいと思った。神を信じ、規律を重んじ、みだりに和を乱してはならぬ教職者の身で、誰がわざわざ罪を犯すことを事前に報告するのか。
ある休日。太陽を背負い込んで白く光る窓掛けが、ぱたぱたと風になびく。室内に満ちる青葉の匂いを押しのけて重たい空気が流れ込んだ。
自分から崖に落ちよう物言いを、策略家である友人がしたことが信じられず、酒でも過ごしているのかと顔を覗き込む。デクランは本気に取ってもらえなかったことを受け入れて薄く笑う。多少傷ついていることは顔色でわかった。
『わかった。でも、聞かなかったことにするよ』と言って手元の書籍に再び目を走らせると、デクランはまだこちらを向いたまま隣に腰かけている。何か言うなら聞くつもりで黙っていると、ゆっくりと時間を掛けて『ただ知っていて欲しかった』とぽつりと独り言が落ちる。さすがに聞き逃せずに本を脇に避けて、つまらない事をいう男と向き合う。
『なんて?』
『怖いんだ、とても』
『脅されているのか? それとも誰かに強要されている? いや、名前は出さないでいい。何も言わないで』
『うん、ううん、そうじゃない。自分の意志で成そうとしている』
『思いつきでやる訳がない、それはわかる。なにをそんなに窮屈にしているんだ』
『窮屈。そうか、君にはそう見えるんだね。面白い見方だな。もっと聞かせてくれる……?』
やはり酔っぱらっているんじゃないか。デクランは水流を泳ぐ魚のように、掴もうとすれば逃げる。何があったのか聞いても答えようとしない。ただ頭を揺らし、ほとほとと笑っているので、熱でもあるのかと心配になってくる。
『君から見て、私はどう?』
二人でいると色んな話をするが、自分がどのような評価を得ているかといった、称賛や反省を言葉にして確かめ合うことは互いに興味はなく、それどころか意識して避けていたふしがあった。それなのに彼は自らせがんで話題を持ち掛け「それで?」とか「どうして?」とか「なんでそう思うの?」と必死になって続ける。互いを友達と言いあうとか、褒め合うとか、好きだか嫌いだか言うような情緒溢れる日々は幼少期に終えていたので、彼がいつまでも自分の輪郭を確かめようとする姿は異様にうつった。
何かおいそれと解決できない懸念を抱えていることは察せられたが、結局のろのろと紡いでみせても最後まで怖れの原点を語ることはなかった。むしろ、元より形づくられたものがあり、その輪郭が変容しない事を確かめるために相槌を打っていたという空気があった。終わる頃にはすっきりとした顔をして食堂に行こうと誘われる。腹が減ってはどうにもならないといつもの顔。それでいいなら、こちらも深くは踏み込まない。今日はそれでいいというのなら。
その後食堂で人から人へ、風のごとく囁き話をして訳の分からぬ使いに出したり、出されたりと策略に勤しむ姿を眺める。人を夢中にさせる力を遺憾なく発揮し、笑顔を振りまいているのを見ると、『怖い』とこぼした頼りない顔が心の隅にわだかまって離れない。彼にしかできない、彼だけの際どい生き方がまさか禁忌へ踏み出すとは、彼自身も思いもよらなかったのではないか。そんな風に思った。彼自身その道を歩んでいいものか葛藤があるのかも知れないと。
思えばこの時から既に方々に手を回し、医術研究の土台を固めていたデクランは教職者として規律を侵害することと、人を救いたいという純粋な願いの間で板挟みになっていたのだ。




