302 肉料理:----・------(94)
治癒術をかけたとしても体内に巣食う疫病を滅し切ることはできない。
ここで彼の身体的不調を一時的に治し、衛生的な環境で繰り返し緩和治療を続けて行けば、他の病同様に治癒する可能性は高い。しかしそれには症状を見極め、流入する理力量を調整するなどして免疫力の低下した患者に始終付き添って治癒をすること、それを実施できる操術に長けた者が必要となってくる。
増え続ける罹患者に対して治癒者の数は増えることはない。ましてや衛生的な環境を与えられる病院や施療院も無限の病床があるというわけではなく、患者の受け入れを中止せざるを得なくなっている。
病院で治療を受けられる者、家屋に放置された罹患者、陽光の差しこまぬ路地で身を寄せ合って死を待つ者、街には死と糞尿の臭いが流れ、重く檻となって生を封じこめている。
路地でその日を過ごすような弱く貧しい暮らしをしていた人々は、疫病の猛威を最も激しく受けた。死は不平等なものに移行している。
疫病を滅することができないなら、少なくとも人の営みに関わり合いの無いところに押し込めていけばいい。ヴァンダールの高位教職者たちは既にそうした方向に舵を切っている。当代の大主教は施療院や病院を多く建設した善の権威者として知られているが、彼が疫病によって帰らぬ人となった事は教職者のみが知っている。だから目前の祭服の男が夜明けより先に自身の"真の往生"を見出したとして、それが死の中にあったとしても、その気持ちを遵守する以外にしてやれることはなかった。
糞と血を吸って変色した紐を握ると、それだけで少し体が引かれる感覚に気づいて男は能事おわれりといいたげにからりと笑う。自傷してもなお心からの感謝と謝罪を短く述べるので、他に何かあるかと問いかけた。「家族があるのではないか、何か伝える言葉は」すると男は首にべったりと血をつけながら笑った。
「穴の中にいるんだ」
どさりと、また一つ"投棄の音"が鳴る。骸の寝台の上でまだ息をしていた男は、ひゅうひゅうと空気と血が流しながら、最後の力を振り絞り、目の前の黒ずんだ骸を引き寄せる。腰に結びつけた紐を解いてやりたいが、細かい動きはもうできそうにない。固まる指から血みどろの短剣を何とか手放して、愛しい人に身を寄せる。まるで枕元で額を擦りつけ合った日々を繰り返すように、炭化した肌に顔を沈めるほど近づけて、舌をだして舐めとる。よく泣く子だった。その度に涙を口づけで拭ってあげた。
――松明を投げ込む。祭服はいっとき炎を拒んだが、次第に侵されて燃え上がる。燃え上がっていく。
「…………」
壁際でうずくまるコーンウェルを見た瞬間、あの夜の記憶が蘇った。
腰に麻の紐が結ばれていないか確かめてしまうことを歯がゆく思いながら、ためらうことなく傍に膝をついた。わあわあと声をあげて泣くこともできない男は、衝撃から身を遠ざけて眠り込もうとしている。
「コーンウェル」
肩がびくりと跳ねる。床に六本の血の筋があるのを見る。床板を削りとった爪は割れて、まるで拷問後だ。真っ赤な両手に頭を乗せたままコーンウェルは顔をあげない。狩りを終えた獣が前脚の上に頭を乗せて眠っているような――翻弄されたあとに生まれる物寂しさがそこにある。
年齢も異なり種族も所属も異なる他人だが、互いにデクランを通してつながりがあった。心に激しく渦巻いているものがなんであるか、いくらか察することができる。だから人を避けたいという気持ちが強く滲む背中に、容赦なく拳を叩きつけた。呻き声のあと、単なる痛みにも関わらずコーンウェルの涙が止まる。二人の中に同じ悲しみはなかったし、コーンウェルのように自身の内側に溜め込んで渦を巻くほどのものを、男は持っていなかった。だからこそ家族を亡くした男にしては落ち着いて動くことができる。落ち着いて、誰かの背中を押すことができる。それが年の功というものなのだろう。
「ここにいるか」
それだけ言った。コーンウェル・デムランである前に、監査部所属という立派な肩書きを持つ男に、立場を棄てずにシュナフ領の為に動くか、それとも友を喪った男として悲しみと向き合い続けるか問いかけた。強張った首筋に葛藤が見える。
眺めていると、ふと、年若い男が羨ましくなった。悲しみ嘆くこと、自分の気持ちを正直に訴えることは随分と昔にやめてしまった。マッケナ家の男として、自らを燃焼させるのは市民の為だけであると誓いを立てた。かつては芯に持っていた熱もない、何かをぶちまけてやりたいと思うようなことも絶えて久しい。
コーンウェルは泣き濡れた顔をそのまま上げると、「仕事、します」と自分を惨殺しながら静かに答えた。自分だけがデクランの特別だと感じたまま悲しみに浸ることを許さなかった。そうしても誰も責めないというのに、彼自身が己に抵抗したのだ。もしくは記憶の中のデクランに対して、かも知れない。




