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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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300 肉料理:----・------(92)

「たかが文官の野辺送りが済むまで、忍耐を甘受せよとおっしゃるのですか。貴方がなさるべきことは一介の教職に没入することではない。お判りでしょう、閣下」


男の言葉に間に立っていた働き手・リップがたまらず叫ぶ。興奮しすぎて鼻背にかけた眼鏡がずり落ちても、彼女は拾い上げもしなかった。もとより世界は滲んで、何も見えはしなかった。何よりも尊敬すべき師が忌避すべきものとして扱われることが悔しくてならなかった。


「どうしてそのような……そのような心無いことをおっしゃることができるのですか!? デクラン様はッ、悪臭と汚泥に委ねられた患者さえ、手ずから治療にあたってくださった特別な…ッ」

「黙れ小娘!」男は烈火のごとく叱りつけた。しかし二の句は継がない。リップが引き攣って舌端を深く収めた事を確かめてから、冷静に言葉を紡ぐ。「理由のなんたるかを問わず、心情だけで立ち向かおうとするな。お前が振りかざした物は敢然な正義ではなく情感のままの不敬だ。澱みを吐きだし、いっとき心地よく感じることもあろうが、今で無ければ荷車引きの刑となるのだぞ、頭を冷やせ」


リップが息を飲む。後方で侍女たちも口元を覆い、言うまでもなく怖れを染み込ませている。


「この場でお前を責めようという者はおらぬ。無知な女の癇癪など二の次」


社会的ないし道徳的意味を孕む教職者序列を踏み越える事は許されず、まして女に猶予は与えられない。人格を誹る発言を公然としたことで女の存在意義は失われる事は確定し、この場で態々裁くことではないからだ。シュナフスへ帰還したのちに、鎌首をもたげた男共によって起訴と追訴を以て社会的地位を奪われ、罰を与えられる。そういった道筋が目に見えているのもまた男のみである。お前は死ぬだろうと丁寧に告げる必要はない。


男は女を嫌っている訳でも、師を想う余り直情的になった女が憎い訳でも、口出しされたことに苛立った訳でもなかった。なかったが、階級は社会を安定して進行させる規律であり、弱者排除という加虐的な行為すら肯定する道具だ。だから女の取るべき道はいつも明らかだった。


「……お許しください。お許しくださいませ、あ、私は、私が、過ぎた言葉を」

「……落ち着いて聴け。お前が背に庇う死者はもう動かん。もっぱら職務に精魂傾けていたそれはこうなる事を考えていなかったわけがない。ハッ、理不尽な死に方であっても、そこらで笑っておるのが見えるわ。それどころか、自分の事で進行に歯止めがかかったとなれば、悲憤ではなく現実の過酷さに目を向けよと冷淡に突き放すのではないか? それがお前たちを教導していた男のはずだ」


盛大に舌打ちをして男は顔を歪めた。憎い相手を褒めてしまったこと、認めていた相手が死んだこと、もう憎まれ口をきくこともできないこと、それら痛ましい悲哀と怒気が一緒くたに滲む。その美しくもぬかるんだ男の内情を若い働き手が知ることは一生ない。


「現実を多少とも改善しようと画期的な計画を考案していたことなど知っている。予算や施設建設、備品作成、職人調達、工房での大量生産……すべてひとりで、秘密裏に成せると思うか? 物を知らん莫迦め……あれはお前だけの男などではなかったシュナフスにとって………ふん、不問とする。私は何も求めることは無い。お前が成せることをなせ」


また鼻を鳴らして男はその場に座り込んだ。決してデクランや手術を嫌悪していたわけではなかったのだ。働き手は自分だけがデクランを知っているような気がしていたことを唇噛みしめて恥じ入り、シュナフの補助をするために台の反対側に駆け寄った。

座り込んだ男の横は、同じ体勢の男たちで埋められていく。誰も何も口出しせず、かといって大主教を引き剥がそうともしなかった。優先順位を問いかける言葉は放たれ、シュナフはそれに沈黙をもって返した。それ以上のものは必要がない。その中で一人立ち上がった大男が、後方で立ちすくむ侍女に向けて角の丸めた優しい声を掛けた。傷だらけの顔に余裕をもった笑顔を浮かべているが声は弱弱しかった。


「何人か、のう、手伝ってくれんか。デクランに……あやつに綺麗な服を着せてやりたい。あれでは……マッケナ家の男として不憫でならん。あいつの服を見繕ってもらえんか、儂ではようわからんのだ」

「マッケナ様……」


デクランの小父は皺くちゃの顔を片手で揉み込む。彼はデクランの事を彼なりに愛していた。目元を赤く染める曲線のうえで思い出が揺れている。小父は歳相応に老け込んで「のう」と呟いた。

デクランを担いでここまで連れてきたあの力強さは、彼の精神同様に沈みこむ。屈強な体と心をもってしても、永劫の別離には覚悟も積み立てておくことはできないのだと、またしても思い知らされる。自分より若く、これからの男がどうして老いぼれより先に旅立つのか――

侍女たちが駆け寄り、目礼をして気遣う。微笑み返して彼女らを伴って退室しようとするも、男は足を止め、首を左右に振って室内を見晴るかした。


「コーンウェル」






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