298 肉料理:----・------(90)
『そうだ』私は構わず続けた。
彼は微かに身じろぎした。ほんの少しの動きだ。文官室でみるデクランは細く、弱弱しく感じられる。
『新品・中古に関わらず売買の調査は続けておりますが、はい、今後とも複数の訴訟が発生する見込みです」
――過去からの手紙はまだ届くらしい。何通あるかといった細かいことはどうでもいい。私はあんなものはもう二度と読みたくはなかった。もう二度と味わいたくはなかったのだ。
『お前の提案についてよくよく考えた』
『……はい』
デクランの眉が下がり、瞳が翳りを見せた。私が室内に入ってきた時点で、言葉の方向性を察していたのだろう。彼は、息を止め、静寂に落ちる準備をする。
『中古の調査はあの一件で充分だ』
『……』
『けれど私は調査報告を受ける義務がある。本件の手掛かりになる事はすべて口頭で知らせること』
『……閣下がそう仰せならば、承知いたしました』
暗に古い手紙はもう不要で、やり取りをする気がないと告げる。
ますます翳りゆく顔から視線を逸らすと、病的なまでに整然とした机上に気づく。紙束は反り返りひとつなく、端が揃えられている。決まった位置に尖筆が二本、葦筆も二本、書類は二か所に分けて机の片側に寄せて置かれ、ある程度の分量の巻紙がその反対側にまとめられている。一番上に置かれた書類には彼の署名があるが、墨の乾いた文字は見本のように美しいものだった。
私物といったものが一切なく、支給品だけの味気ない机と、部屋の光源に頭部を照らされた細い男。それは言ってみれば病床の一角であった。教務にも、それどころか教職にも関心がないといわれても納得できる。食事はまともに取っているのか、誰よりも細い。周囲と比較すればまだ子供だ。
この小さな頭蓋骨のなかで、あらゆる筋書きを描き、最短で進んできたとは夢にも思えなかった。理力もなく、唯一所持する己の頭脳だけで戦ってきたのだとしたら、いま、そうしたすべてが積み重なり椅子にこじんまりと腰かける顔に、憐れみが湧いてくる。
出で立ちに目を向けると、首裏の汚れや袖口のしみがあることに気づいた。髪は左右で長さが異なり、私のそれとは異なり丁寧に梳られていない。遠目には小奇麗に見えるが、そばで見ればあちこち草臥れている。マッケナ家の管理下であれば、このような事にはならない。なる筈がない。あの家は怖ろしいまでに家名を貴び、気高さを求める。たとえ背中に虫食いの穴が山のように開いていようと、表を繕う事に命を賭けている。
(家を出たのだろうか、宿舎住まいか、そもそもまともに生活できているのか…………私はお前の歳も知らない)
シュナフがまだ家に縛られていた頃、デクランについて覚えているのは、柱の陰から見つめる双眸だけだった。シュナフさえ、暗い旋律に満ちた過去を思い出すことは難しく、歳の離れた弟と話した記憶もなかった。そのため年若い男が文官となり、マッケナという家名と共にデクランという名がいくらか人の口から出るようになったとしても関わり合う事はないだろうと、文官室入りを示す証明書を是の箱に入れたのだ。たとえ向こうから「弟」だと近寄ってこようと主従に変化はないものと思っていた。
しかし今、シュナフは目前の男を"部下の一人"として見るために努力している事に気づいた。そうしなければならない程に、変化が生まれていた。
『……報告書は一切不要ですか?』
これだけの人数がひしめく文官室で最も優秀な男は、目だけを光らせ、問いかける。それはやがて空しく崩される波をみるような目だった。
私は答えなかった。答えの代わりに額に皺を寄せたまま見下ろす。デクランはひどく控え目に首を折り『そうですか』と呟いた。
生白い指が机の下からするりと這い出て、尖筆の尻をすっと押し出した。
『私は多忙だ』と言うと、今度は頭側を押して、またぴたりと二本の尖筆は揃えられる。心の乱れを整えるように、指遊びは三度続いた。
『存じております。貴方は……』
デクランはぼんやりと尖筆ではなく、永遠を眺める。
シュナフは手首を返し、扉を叩く時のように机を鳴らした。音が響くように強く当てると、骨に多少の痛みが返る。さすがのデクランも意識をすぐに戻して、背筋を伸ばした。
『先走るな。この点に関しては出来るだけ時間を割くつもりでいる。小出しにされると手間だというのだ……作成済みの報告書があるならば、一括で持ってきなさい』




