297 肉料理:----・------(89)
『手紙を出し合いましょう。一行でも二行でもいいですから。にいさんの"ここ"に詰まっていること、分けてください』
指の腹が頭部を滑る。自分より大きな直立する獣を、それよりも体の小さな者が愛玩しようとする知恵のなさを感じさせるものだった。端から見れば、大主教の頭を撫でる不躾な文官であり、会話を切り上げるべきだった。私は私を守ることはできるが、マッケナ家はデクランを守りはしないだろう。いつになったらこの男は自分を守ることを覚えるのだろうかと溜息を吐く。弟の真意が読めず、私はいつになく疲れていた。
『……離せ。そうすることに何の意味がある』
『離せとおっしゃる前、何の意味があると言った後、言葉の前後に無数の選択があったでしょう。もっと強く拒絶したり、私の向こう見ずをずたずたに直す言葉も選べた。だけど省略なさった。手紙だとそうはいきません。消した痕跡も、筆圧も、匂いや、滲み。貴方が何を気にしているか思い浮かべながら読むことができる。だから手紙が好きですし、貴方に書いてもらいたいと思っている』
『……そう言われて、ますます頷く気になれない』
『手紙は手紙です、身構える必要はありません』
『しつこい……昔はあんなに怯えていたものだが……今のお前は底が抜けている……』
『また。熟慮も大切ですが、吐きだすことも同じくらい肝要ですよ。第一に私が私を知って欲しいのです。昔の私ではなく、今の私がどのようなものか』
『……不要だと言っている。これ以上自分を売り込もうとするな……』
いずれにしても一方的な手紙は送られ始めた。
私は返事を書くつもりもなく、封蝋を砕く気もなかった。けれど驚くことに机上に置かれた手紙の束の中に紛れ込んだデクランの手紙は、他とは異なる凄みがあった。封筒は色褪せ、差出人の名は滲み、角は毛羽立って糸くずのような細い繊維が立っている。けれど宛名だけは真新しい。全体からかび臭さが滲むのに、新品の墨の匂いが混じる不可思議な手紙だった。それは明らかに"かつてしたためて手放すことができなかった手紙"だった。
(今の私を知って欲しいのではなかったのか)
たとえばこの中に、私がマッケナ家を出たあとの弟の日々が綴られていたとして、それを知る意味はない。既に過ぎ去ったものは変えようがないのだ。今朝私が横を通った時、彼は文官たちと肩を並べて頭を下げていた。今日この文が届くことを知っていただろうか。彼がどんな顔をしていたか、思い出すことができない。
デクランが何を考えていようと、手紙の封を切らねばならない。こんな異物を置いておく場所は執務室にも自宅にもなく、私の心の中にしか存在しないからだ。
時の経過を封じていた蝋は役目を終えて粉々に砕け散った。三つ折りにされた紙を広げる。紙面も隅が変色し、額装されたようになっている。薄っすらとマッケナ家の紋章が見える。全体拙く、ほとんどが日々の出来事を書き連ねた日記だった。けれど敷き詰められた時間の合間に、当時の心境が屈折する事無くありのまま綴られていた。
『寂しいのです。とても寂しいのです。誰も会いに来てくれません。私の名前を呼んでくれるのは従者だけです。彼からも理力がないことは恥ずかしいことだと聞きました。どうして理力がないといけないのかと尋ねても教えてくれません。私に理力がないことが全て悪く、がいあくにほかならない、それが父の言葉だそうです。がいあく、きっとよくない言葉でしょう。この部屋は何もありません。でも本が数冊、柱の裏に置いてあるのを見つけました。にいさんが読んでいた本ではないですか? この部屋はにいさんの部屋だったんでしょうか。いえそんな筈ありません、埃だらけです。本の最後に名前が書いてありました。にいさんの名前です。神様と人の間の諸原理、難しい言葉ばかりの本で読むのに時間がかかります。にいさんがいてくれたら、教えをこう事ができたでしょうか。貴方がここにいてくれたらと思わない日はありません』
迷いの痕跡、筆圧、匂いや滲み――デクランが文面から読み取れると言っていたものが、シュナフの中に流れ込んでくる。手紙の中に敷き詰められていたのは、デクランの孤独そのものだった。
入室の挨拶もせずに文官室の扉を押し開ける。戸口から出ようとしていた文官はシュナフの顔を真っ向から見つめて、墨の匂いを排出しながら叫んだ。「大主教様! どうしてこちらに」
言葉は続いていたが聞き終わる前に、奥へ進む。目当ての男は左右に並ぶ長机の一番奥で書籍に見入っている。
本の陰になる位置で見下ろすと、ぴくりと耳が震えて、視線が合う。
『まだあるのか』
デクランはにこりと微笑むと本を少し掲げ『民事訴訟の事例ですか?』と、とぼけた。事例集の表題を見せている。周囲に憚っているのだろう。文官たちが何事かと息を潜めながら会話を探っている。
 




