291 肉料理:----・------(83)
何かの衝撃を受け、彼の頭部がぶるんと震えた。少し強張った顔に血が滴り、照明にあたって白く反射した髪の毛がはらりと落ちていく。彼はその場に立ったまま、自分に対し理術を使った。
頭頂部から滴った血が雪崩をうって額を赤く染めていく。彼は床を見つめたまま依然として耳を掴んでいる。拳を左右に揺らし、ぐちゃぐちゃと不快な音を聴きながら耳の具合を確かめている。それは、ぐらついた歯を抜く直前にする動作に似ていた。
不快を帯びる口元が開く。エトマンの耳に今度ははっきりと切断術の詠唱が聴こえた。ぱたぱたと血が弾ける。一度目も、二度目も、衝撃は彼の頭部だけに発生している。
(見てはだめ―――)
頭の中で警鐘が鳴っていた。それでも目を凝らし、彼のすべてを見ようとする。恐怖で体が動かないのか、まだ何かを信じようとしているのか、自分にもわからない。
彼は腕を前に伸ばすようにして下ろした。前に傾けていた首を仰け反らせて、肩から力を抜く。頭部がどうなったのかは見えない。掴んでいたものはエトマンに向けて放られる。障壁にぶつかり、べちゃりと落ちる。柔らかい肉のようなものが、……
――――エトマンは見た。脳裡にありありと刻み付けるようにそれを見た。それなりの量の皮膚と、頭髪のついた血だらけの獣耳を。男が、自身の体から剥ぎ取った肉片を。
声は出なかった。自分の体を抱きしめながら後ずさる。直ぐに何もないところでつまづき、尻から倒れ込む。顔の皮がごっそりと重くなるのを感じながら、食いしばった口元で歯をがしがしと鳴らす。恐怖や絶叫よりも、心を埋め尽くしていたのは絶望だった。
その時エトマンは気づいた。いつか師のようになりたいと頬を赤らめて語っていたグレゴリーはもうこの世にはいないのだと。目の前にいる男は、グレゴリーではない、異物なのだと。
彼は頭頂部に治癒術をかけて、元通りになった場所をさらりと撫でた。元から何もなかったかのように滑らかになっている。耳の事は、もう塵の扱いだった。ゆっくりと視線をエトマンに向けて「それがグレゴリーです」と、およそ狂人にしか吐けない言葉を平然と言った。怯える目に、今度は尻尾が降ってくる。
耳をそぎ、尻尾を抜いて、男の体は損なわれたというのに、なおも若さや健やかな硬さが立ちのぼる。グレゴリーから感じていた青い果実のような匂いは消え、冷ややかな空気を携えている。眼前、涼しい顔で佇む男はグレゴリーという卵殻から新しく脱出したとでもいうように、思い出や友情から離脱していると思われた。だが、何もかも変わってしまったわけではない。
俗気を洗い流した男は、すっとエトマンの後ろへ視線をうつした。
つられて振り返ると、失われる命に溺れ込むようにすがる男の背が見えた。それは大主教という職位を脱ぎ捨てた男の姿だった。目を逸らしたくなるほどの哀愁がシュナフを包んでいる。治癒術の光がデクランの形姿のままに漂い、さらに数を増しながら癒しを試みようと未だ留まっている。彼はまだ必死に術を唱えているのだ。男の声なき叫びが、目の奥をひりひりと刺激する。
ひとりの男の属性が地上から天へと還ろうとしていた。エトマンは、その光景からグレゴリーの目が逃げ打つのを見た。嘲笑があるわけでも、後悔がみえるわけでもない。けれど彼の中で何かが渦巻いているのを強く感じる。今まで知る事の無かった新しい顔を見たような気がした。
大主教はデクランをかかえ直し、自分自身を失血帯にしてでも、細い体が軋むまで身の内に押し込む。が、デクランはもう感覚が麻痺しており、眠りに落ちる寸前のような穏やかな顔をしていた。投げ出された手足は暗い血の中に引き込まれている。すすり泣きがあちこちから聴こえても、二人は互いの息遣いだけを聴いていた。デクランはシュナフの頭を一度だけ撫でた。それが彼にできる最後のことだった。
「おわかれです……にいさん」囁きはシュナフにだけ届いた。
つなぎあっていた手から力が抜ける。
扉が開き、廊下にいた各領地の教職者たちが雪崩れ込む。龍下の名を叫んで人垣を掻き分ける者、シュナフの名を呼ぼうとしてやめる者、禁忌を叫ぶ者、罵倒する者、皮肉をいう者、収拾のつかない部屋の中でデクラン・マッケナは死んだ。甲高い哀訴が室内に満ちる。一人の善人の命が失われたことに、他のすべての善人が自分たちのことのように心を痛め、泣き喚いている。
たったひとりの悪人は―――他人の肉を被っていた男は姿を消した。窓は割れ、障壁だけが彼を守るように在り続けたが、後を追う者はいない。
エトマンの耳には、砂利を踏みしめる微かな音を聴いた。男の足音は迷いがなく、後悔の欠片も存在していなかった。
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