289 肉料理:----・------(81)
エトマンは集団の外側に立っていた。
大型の受血装置は、付随品の多さから処置者より少し離れた場所に配置される。彼女は装置の前に陣取り、複数の硝子瓶や計測器を注視していた。受血量、出血量、体温などの全身状態を評価し、定期的に数字を全員に聴こえるように大きく口にする。装置を見上げる彼女の斜め前にはデクランが立っていた。当然ながらエトマンは記録に集中していた為、グレゴリーの凶行には気がつかなかった。
しかしグレゴリーは時折エトマンのそばに寄ってきて、硝子瓶の交換等の背の低いエトマンでは少し時間のかかる作業を代わりに行い、また別の作業に戻っていった。長らくともに修学してきた面々は気を使いあうことは殆ど無かったが、人付き合いを不得意としているエトマンはついグレゴリーの目を見て礼を言いたくなる。重々しい息遣いの中で静寂を破らぬように、ほとんど音もなく「ありがと」と囁く。口下手なので、そんな短い言葉でも舌がもつれる。するとグレゴリーはエトマンの抱える記録紙を指でつついた。何か言う前に手から尖筆を抜き取ると、紙面の隅にこう書いた。―――誕生日おめでとう、エトマン。
驚きのあまり何も言えなかった。随分と前に話したことを覚えていてくれた事は嬉しく、鍋が沸騰するようにぐつぐつと思考が噴き上がった。紙の端をゆっくりと破って胸元に押し込む。その直後に騒ぎがあった。
振り返ると彼はもうデクランの後ろに立っていた。肘を曲げて、掌をデクランの背中に押し当てているようだったが体で隠されてよく見えない。それよりももう片手にある火掻き棒が気になった。そう見逃してしまったのだ。エトマンの心は罪悪感で埋め尽くされた。その気持ちがこの場で最も勇気のある者を生んだ。
彼女は何も持たずに走った。先端の尖った器具はそこらじゅうに有るというのに、瀑布のようにただ勢いをつけて飛び込んだ。グレゴリーは避けることができたが、わざと掴まる事を選んだ。他者に暴行を働いた事のないエトマンは突進する相手も見ずに目を瞑っている。
すんなりと避けてしまえば、頭から台座に突っ込み、龍下の体ごと床に突っ伏すだろう。それはこの場に相応しい滑稽さだが、これまで共にいた中で少し育った憐憫が、彼女の健気さを受け止めるに至る。強いていえばグレゴリーはもう仕事を終え、焦る必要がなかったのだ。
グレゴリーの腰を掴んだエトマンは足を踏ん張り、部屋の隅へ追いやろうとした。自分より体の大きな男の重みなど考えたこともなく、彼の体に触れた瞬間、父の言葉を思い出した。男女の差もあるが、それよりも種族の差は大きい。力自慢らしい男を軽々と持ち上げる細身の女がいる。見た目で判断してはならないと言っていた。
グレゴリーは痩身だが筋肉質な体はびくともしない。自分の体が急停止するのがわかる。しかし彼は自ら進んで足を動かした。エトマンが押し出そうとする方向にわざとよろめくように移動する。
踊りの最後のように二人は離れた。肩で息をするエトマンをグレゴリーは微笑みながら見つめていた。その目はいつもの彼だった。
エトマンの勇姿に触発されて、他の男達がじりと一人の男を包囲しようと近づいていく。グレゴリーは彼らに向けて指を一本立てた。
「エトマンは許しますが……他は駄目ですよ―――隔てよ」
空に呪文が浮き上がる。大きな帯がグレゴリーの体を巡り、不可視の障壁が貴賓室の端と端をつないだ。どよめきが走る。
「あ、あなた理術を……どうして」
「はい、使えます。嘘をついていました。ごめんなさい、悪気はなかったんです。どうしてもデクラン様が憎くて、だってこの方、僕の両親を殺したんですよ。だから復讐したかったんです! 僕は悪くありません!」
「そ」
「んな事はありません。嘘です。実は私シュナフ出身ではなく、ヴァンダールの者です。ヴァンダール様は勇気がおありで、幼女を侍らせて悦に浸っていた気持ちの悪い男、あぁ、そこで横になっている龍下のことですが、その下劣な行いを白日の下にさらして下さいました。だけど運悪く、本懐を遂げることができませんでしたので、私が代わりに鉄槌を下したのです。という話はいかがでしょう」
「ふざけないで…!!」
「そんなに興奮しないでください、エトマン。顔が真っ赤です、あなたが倒れてしまえば誰がデクラン様の受血を管理するのですか?」
「……あなたは本当にグレゴリーなの?」
「どう見えますか?」
「私がきいてるの。グレゴリーはこんな事する人じゃない」
「……そうやってきっぱりと答えればいいんです。いつも俯いているけど、本当のあなたは善人で強い人なのですから」
自分の胸をとんと指でつついて笑う。それはエトマンの胸にしまった紙片を指している。男の考えがまるきり分からなかった。




