288 肉料理:----・------(80)
デクラン・マッケナは若者の目指す到達点であり、頼りがいのある師であった。
努力の石段を登れば、例え理力がなくとも高みに在れるのだと彼の存在が証明していた。常人であれば痛罵に費やす吐息を修学に注ぎ、筆頭文官として市政を支えている。彼の頭の中は様々な思索で疾風吹き荒れているが、息の切れる様子も見れない。かと言って、若者が声を掛けると考えることをきっぱりとやめ、笑顔をみせる。若者の拙い心を彼は一度も拒まなかった。口癖は「もう歳ですねぇ」だった。加齢のせいで肉体は衰えてきたと口の端に笑みを乗せるが、そんな彼と心中をしたい者は多い。
けれど彼は心の奥では他者との間に線を引いていたように思う。その線は明澄として、透明で、威圧感はない。窓辺で分厚い本を開き、くたびれた椅子に腰かける彼は向かいの空席を見つめる。彼を尊敬する者の間では、知識の対の座を占める者を待ちわびているのだと噂していた。彼の側にいると鼓動が大きく反響する。その空席を埋めるのは自分かも知れないと、有りもしない先を思い描くからだ。
グレゴリーの鎖骨に頭を弾ませ、髪を乱すデクランの姿は、彼が好んで送っていた静かな生活の中では浮かべたことのないものだった。苦痛で顔は歪み、潤んでいる目は真っ赤に充血している。
「デクランを離せ」
シュナフは全員に台座から離れるように指示をする。心なしか既に少しやつれて見えて、グレゴリーは声をあげて笑いそうになった。
「いいですよ……さぁデクラン様、今迄ありがとうございました。これは育ててくださった事への感謝の言葉です」
グレゴリーは火掻き棒を握っていた手と、デクランの背中側に隠していた手を、さっぱりと頭の横に掲げた。五指を開き、何も隠していないと潔白を示して下がっていく。支えをなくしたデクランの体は一気に倒れ込んだ。
手術器具を乗せた盆を引っ繰り返しながらシュナフはデクランの体を回転するようにして抱き止める。くたりと力の抜けた体にまとわりつく服をひらき、彼の背中に居座る短剣の柄を忌々しく睨んだ。その耳に、ぱん、ぱん、という乾いた音が二度響いた。グレゴリーの拍手だ。
「美しい友情ですね。貴方様やデクラン様にご指導いただいた通り、人体の中でも骨のない肋骨と腸骨のあいだを狙いました。先に言っておきますが、短剣を引き抜きたいのであれば腰部だけでなく腹部も開いてください。相当深く切ることになるので受血の準備もなさった方がいいかと思います。血液が用意できればですが」
術着をまくり上げ、腹をなぞってみると指先をちりを掠めるものがある。衣服の下から出てきた指は擦過傷が出来ていた。シュナフは何度も治癒術の詠唱を重ねた。けれど理力の光はデクランの体に吸いこまれるも、輝きは弾きだされて虚空を飛来する。グレゴリーは背と腹を開けと言った。手術をしろということだ。失血はしているが短剣を抜きながら理術をかけていけば助かる可能性は高い。
シュナフはデクランの腰に手を伸ばし、短剣をゆっくりと引き上げる。すると呻くデクランの体ごと持ち上がっていく。短剣は抜けないのだ。そう思うと、己の指を口に押し込み、これ以上悲鳴をあげぬように努めるデクランの命がひどく遠ざかっていくように思えた。
「可哀想なことをなさいますね」
グレゴリーは涼しい顔で器具の間を通り、炭化した皮膚が積み上がる盆から石を摘まんだ。白布で丁寧に汚れをふき取ってから胸元にしまう。
「その短剣には返しがついています。釣り針とは違って抜き方はありません。十字の柄も外側は木製ですが中は鉛です。復讐によく用いられる一撃必殺の武器です。なので、助かりません」
室内にいた者達はほとんどがグレゴリーとは反対側、唯一の扉のある方に身を寄せていた。しかし扉は理術によって塞がれている。グレゴリーは透視鏡の前で作業をしている間、器具を取ったり、従者から湯桶を受け取ったりと、他の働き手たちと違って室内を歩き回っていた。その為扉を通行できなくしたとしても一時的であり、彼が師と仰ぐデクランの指示なのだと侍女たちは考えた。
シュナフは積み上がった消毒済みの白布を引っ手繰り、グレゴリーの背中に押しつける。圧迫して血の流出を止めるためだった。
「何か言いたい事があるなら早く言え」
「そうですか。では存分に。その短剣は特別製だと言いましたが、切っ先に石が嵌めこんであります。その石が理力の吸収を妨げている。この方と同じです」
「グレゴリー!!」
シュナフとグレゴリーの間に割って入るように、エトマンが走り込んだ。丸い体躯から短い手を突きだして、グレゴリーの体を掴んで遠ざけようというのだ。




