287 肉料理:----・------(79)
奇妙な格好で寄り添う二人に、シェールとブルーシュは口を開けて作業を止めていた。不備でもあったのか、はたまた事故か奇病か。
デクランひとりが突然酩酊したように前後不覚になっているように見えたのだ。声をかけていいものか、異様な空気だった。グレゴリーは彼の後ろにいたが、両手は後ろ側にあり、身体を支えているようには見えない。
手術途中でどうして良いかわからず、かといって何か言わなければと口を開こうとすると「デクラン!」と一喝するシュナフの呼び声に、びくりと肩を跳ね上げる。
デクランはゆっくりと顔を上げた。わけが分からないのはデクランも同じだった。体は弛緩と硬直を繰り返し、釜の中で茹でられているように熱いのだ。思考は散り散りになって、言葉がでてこない。それでも畏敬する主の声は必ず耳に届いた。眉間に皺を刻んだ怒り顔と目が合った。何か答えなくてはと思うも、戦慄くばかりで、代わりに腰を押えていた手を前に出した。
まだ手術の途中なのだから私に構わず続きを―――そう言うつもりで手を前に出す。"腰に生えた何かを必死に掴んでいた"手を。シュナフの目が大きく開く。五指にべっとりと血がついている。これは龍下の血ではなく自分のものなのだと悟った。
「グレゴリーなにをしてる。先生から離れろ!」
複数が息を飲んだ。ようやく異変を悟った者達が動き出した。けれどグレゴリーは落ち着いている。
「そう喚かないでくださいウィンテール……大主教もどうぞそのままで」
シュナフが詠唱に入る前にグレゴリーは見せつけるように、もう一度デクランを引き寄せた。自分の胸板にぶつかって、その痛みでまた喘ぐ男にグレゴリーは笑顔を深める。食いしばった歯の隙間から太い声が漏れ出ても、興奮を煽られるだけだった。
「力を抜いてくださいデクランさま……さあ……」
自身が刃物に貫かれていると判断してしまったデクランの体は、硬直を始めていた。動いてはならないという防衛本能が働き、痛みという信号で溢れる思考を停止させようと、何もなかったと念じ込む。離れようともがいたり、首を左右に振ったり、腕を動かすことすべてが痛みに変わり、呼吸も難しくなってくる。汗が衣服の内側を滴って、腰から臀部まではぬるま湯に浸かっているように温かくなっている。粗相をしているのかと思うほど、足にあたたかいものが伝わり、デクランは冒涜から逃れようときつく目を閉じる。頭に何かが擦りつけられる。グレゴリーが頭皮に頬ずりをしていた。
「は、ッ……? ……あ、、……なん…です…?」
「はっきりと確かめたいですか?」
「せな、か、 あ つい……」
「そうですね」
グレゴリーの笑顔は周囲を惑わせた。今にも昏倒しそうなデクランよりも、子供をあやす様な明るさを保ったグレゴリーの表情は狂気だった。いつもの彼なら、師を寝台に縛り付けて一歩も動かずに生活できるように甲斐甲斐しく世話をしたいと申し出て断られていただろう。とんがり耳と尻尾を下げて落ち込んだはずだ。でも今は、まるでデクランが顔を顰めていることが至上の幸福だとでもいうように彼の震えを全身で堪能している。
この時デクラン達の向かいに立っていたクレヴィアは、短靴の先にぶつかった硬質な感触に半歩退いて足元を覗き込んでいたため、その一部始終は声のみで聴いていた。床には先程までデクランが握っていた鑷子が転がっている。床に落ちた器具をそのままにしておくと後々事故につながりかねない。いつでも先の事を考えて行動するようにとデクランから言われていたことがクレヴィアを突き動かしている。鑷子を拾い上げて、すくと立つと長い前髪を左右に分けた女の無心の顔に大量の液体が一気にかかった。
クレヴィアの目は真っ赤に染まった。
グレゴリーは黒い棒を片手で握りこんだまま、全身血染めになったクレヴィアに気づくと「あっ、ごめん」と軽快に微笑んだ。あまりに気安く、小気味よい謝罪だった。
クレヴィアの顔や体に弾けて散った血は、左右に立っていたオランドとウィンテールにもかかった。胸にデクランを寄りかからせたままグレゴリーは火掻き棒をさらに押し込もうとする。その長物の先端は開創器によって左右に開かれていた龍下の腹部に沈んでいく。グレゴリーは「よっと」とデクランの横から少し身を乗り出して、手首をしならせて火掻き棒を力任せに押し込んだ。クレヴィアは尻もちをついて床に転んだ。足の力が抜けて震えている。顔面に散った液体を拭うと、二の腕が真っ赤に染まった。龍下の血だ。クレヴィアは腹に力を込めて唾液という唾液を吐きだした。龍下の無傷だった臓器は真上から貫かれ、湧水のごとく血を溢れさせていく。グレゴリーはいつ火掻き棒など手にしたのか、どうして誰も気づいていなかったのか、今更な考えが停滞する。そして若い働き手たちは、ひとつひとつの工程を積み重ねてきたこの長く苦しい数時間が、突然終わってしまった事に茫然としていた。




