286 肉料理:----・------(78)
肉体は個人の聖域であり、内部に干渉することは、すなわち"魂"を侮辱するということだ。生きながら皮膚を切り、ぬかるんだ肉を指でわけ、臓物に触れたりすることは、例え治癒目的であっても魂を穢す行為にあたる。理術や薬草を用いた自然治癒、適切な食物による食事療法、湯治療法など、身体の内部から治癒を促す手法が盛んなのも、これらの一般治療が身体の内部と接触せずに治癒能力を高めることができるからだ。
しかし理術にも補えないことはある。失血や身体欠損など、体外に失われたものを復活させることはできない。また理術による治癒では病気の根源を解明することもできない。体内に吸いこまれる理力光がどのような作用を及ぼしているか、判明していないのだ。
「灯りをこちらに。下から鏡をあててくれるか」
「肝臓はなんとか保っている。胃も綺麗です」
「失血部位の縫合終わりましたね。お疲れさま、見事な手並みですよ。吸引した血液はどうなりましたか、誰が理力散布を?」
「別室でコーンウェル様が試みていらっしゃいます」
「理吸紙の解析完了致しました。やはり"体内から見つかったこの石が"――」
「体温も平常に近づいてきています。体液の喪失も許容範囲です」
「瞼の縫合完了しました。すみません、術着と手袋を新しいのいただけますか」
「本当に……"龍下さまの砂糖菓子"も、"龍下さまの護符"も、意味ないのね……」と思わず呟いてしまった侍女は慌てて口を噤んだ。
理力がなくとも龍下はまだ生きているは事実だった。
「シュナフ様、治癒術をかけていただけますか。妨害していた物質を取り除いたので、理力を受容できるかも知れません」
「わかった。吸理紙の記録を、時間も計測してくれ」
赤の貴賓室の床は板張りだが厚みがある。それが今迄に聴いたどの音よりも軋んだ音を出した。グレゴリーが透視鏡での解析を終えたと言いに来たのだろうとデクランは思った。彼は自分の立ち位置ではなく、受血装置の前に立っていたデクランの背後に近づいた。思考を切り替えていればこの後に起きる事は防げたことだったかも知れないが、自分と信仰心を見定めようとしていたデクランは周囲を警戒することができなかった。
今回選抜されている働き手達は、縫合などの外部処置や受血などの内部処置の、どの担当に割り振られたとして卓越した熟練度を持ち、要求される動きを一通りこなす事が出来る。日々研鑽を積んでいる彼らは、理力がなくとも人を救いたいと公言できる勇者的思考の持ち主だ。非凡な能力を備え、努力を苦と思わないが、理力がないというだけで凡人以下の扱いを受けて働いていた。
その中でもグレゴリーはデクランが選出した若者だった。
若きグレゴリーは汗の滲む額に手巾を押し当てながら、感情を押し殺そうと地面を睨んでいた。理力持ちに雑務を押しつけられ、指示に従うだけで一日を終えている。神の前で頭を垂れて、教会の奥へ入っていく彼らと自分の違いはなんだろうかといつも考えていた。理力の有無が信仰よりも偉大なのだろうか。職位で順位づけられ、さらに理力で区別される事は怖ろしいことだと思えるが、多くは教職者たちはそう思っていない。そして今の自分はもっと職位を上げることで、一人の教職者として正しく認めてほしいとも思っている。職位によって定義づけられることを忌避しながら、それを利用しなければ自己を保てないという矛盾が悔しかった。
デクランが声を掛けると、グレゴリーは目を大きく開けて沈黙したあと、顔を顰めて訊き返した。「本当に私ですか」と。貴方が欲しいとおっしゃっているのは本当に能無しの私ですか、と続けて言うのだ。初対面にしては卑屈すぎる言葉だったが、デクランは話し合う場所と時間を告げた。彼の瞳の中で始まっている情熱に、行使する術を与えるつもりだった。
「う゛……ッ、くっ……!」
手術に没頭する彼らの耳を、呻き声が遮った。龍下から発せられたものかと顔を上げた面々は、金属が落下する音を続けて聴いた。
両腕を前に出したままデクランの体が大きく傾ぐ。龍下の体に頭を押しつけそうになる寸前、後ろに立っていたグレゴリーが反動をつけて自分の方へ引き寄せた。その瞬間デクランの体を激痛が貫き、奥歯ががちりとかみ合った。仰け反って真上を向いた視界が、照明に焼かれて真っ白になる。
何かに貫かれる強烈な違和感がデクランを襲っていた。後頭部は分厚く、脂肪のない引き締まった壁を撫でつけている。壁はふっと小さな笑い声を漏らした。「落ち着いて、息をして……」グレゴリーの声は頭皮をくすぐった。頭ひとつ上から落ちてくる声の静けさよりも、背中の熱さがしきりに気になる。必死に身をよじっても腰帯を引っ張られているのか、腰から下は自由にならない。背後にぴたりと付いた長身の男は呻き声の数だけ囁く。痛みが強くなっていく。




