285 肉料理:----・------(77)
「海は美しくありました。あの広大な水の塊は無生命なのに、見る人の心に生命を住まわせる。不思議な魅力ですね」
デクランは壇上で用いるような特徴的な超俗を醸し出していく。
「永遠の持続という観念をご存知ですか? 私達は死を免れませんが、肉体から抜け出た魂は大気に還るものと考えている。しかしヴァンダールでは魂は天ではなく海に還るのです。死者の口に火を入れて、熱さから逃れた魂が海に飛び込めば、魂に付着した生前の罪や穢れが洗い流されて、崇高な魂のまま次の生を迎えると信じているのです。つまり海には死んだ時と同じ状態の魂が保有され、来世を巡る喜びを享受するため、水底に深く深く落ちていくという一つの対流が発生しているということです。それが永遠の持続です。ヴァンダールにとって海とは、神聖と穢れを流動させる一種の装置であり、人々はその不均質の揺り籠に必ず還っていくのです」
「不均質のゆりかご……先生はいつも難しいことをおっしゃいます」
「そうでしょうか?」
「というより専門から逸脱していますよ」
「あら」
微笑みを崩さないデクランの向かいで、クレヴィアはずっと下を向いている。開創器で広げた患部に鉗子を挿入し、露出した肉をかきわける。デクランも先端が平らになっている鉗子を向かいから挿入する。二人は手際よく互い違いに工程を積み重ねる。まるで狭い厨房でも動線を決して被らせない料理人のようでもあるし、機械の解体を得意とする技工師のようでもあった。
「埋没しているところ、先に下を切除して視野を確保しましょう。血管を避けて、左右二か所切断。ここと、ここ……上手いですね。グレゴリー、透視鏡を用意してください。専用の保管箱に入っています。外側にソヴァの花の絵が描いてありますから、それを目印に」
「あぁ、あの箱ですね」と、グレゴリーが勢いをつけて頷く。筋肉質な彼が動くと床が振動した。彼の引き締まった太い首をみると、デクランはいつも実家の庭木を思い出していた。木肌が剥けて、幹の内側がまだらに露出しているのを見るのが怖くてたまらなかった。祖母の口に同じように白斑が浮いて亡くなった時も、庭の前を通ることはできなかった。
彼の首から背中は柔らかい栗毛に覆われているが、母の被毛を受け継いで白斑まじりだった。勤勉で素直な彼を遠ざける理由にはならないが、その色はデクランの胸をしめつけていた。
「朝方に波によって運ばれてくる七色貝は、魂が新生する際に生じた喜びが、こぼれて固まったものだと云われています。身に着けていると幸福が続くとも。だからあなた達の顔が浮かんだ。みんなに渡さなくてはと思ったのです」
幸福、と呟いたシェールの口角がゆっくりと下がっていった。この研究に携わった時点で、幸せがもう訪れないものと思っているのだ。それは大半の者が同じだった。
"生"とは人に課せられた義務である。その生涯の中で罪を犯さずには生きることは不可能だ。青年が白斑だからというだけで少し視線を外してしまうことも、こうして風前の灯火の男の体を傷つけて命を引き延ばしていることも、禁忌と呼ばれる研究に他者を加担させることも、すべてがデクランの抱える罪だった。
デクランは自分の魂が天に還る時、穢れた御魂はどす黒い泥濘に包まれ、到底元に戻すことなどできないと思っている。だから神の手を煩わせることなく、自分の命は自分で終わらせると決めている。
(罪は生きている内に己で償わなければならないのです…………同意してくださいますか、龍下。貴方の炭化した体は罪の表れなのでしょうか? それとも火を口にされた貴方は、海を黒く染めるのでしょうか…………貴方はシュナフ様のお心だけでなく、この国を破壊していかれる……)
頭部の処置を続けるシュナフは表情を崩さないが、心に濁りが生じている。大主教は人の模範となる存在だ。いかなる不和も生まず、法を破らずに、国に奉仕する者が名乗る職位である。しかし禁忌を研究していると公然化された今、信仰心を問われることになるだろう。アーデルハイト・ホルミスとは早急に今後の話をする必要がある。
本来なら臨床試験をさらに行い、実績を重ねて殻公表されるべきものだ。ホルミスとシュナフは未公表の医師団を抱え、理術なしの状況下でおこなう「医術」を合同で研究していた。人の体を刃物で故意に傷つけ、延命・治療する行為は「禁忌」と線引きをされているが、龍下の持つ聖典には人体解剖の図が記されている。すべては"かつて到達していた領域"なのだ。
(今更のことだ。龍下と大主教の争い……しかし私達は……)
―――禁忌を覆す準備をしていたのに。
しかしデクランでさえこう思っている事も事実だ。「ひとつの体に没頭し、男を構成する肉体を切り分けるさまは人の尊厳が意識されていない」と。術式を組み立て、詠唱するだけの理術とは異なる。これは医療行為ではあるが、見た目は粗野で野蛮だった。
研究目的に賛同し、追随てくれた若い働き手たちも心をすり減らしている。専門の侍女たちも同様だ。室内に残った者達は心を寄り添わせながら、必死に大波を耐えている。倫理が飛沫をあげて部屋を浸水していくさまが見えるのだ。息詰まるほどの速度で、心を侵そうとしている。




