280 肉料理:----・------(72)
個人の欲望というものがある。
私、ディアリス・ヴァンダールの欲は絶対的強者と個として直面することである。
そしてこれは君たちへの恋文でもある。
あれは隠れ月の夜――決して家から出てはならないという戒律を破り、妻子を横たえた棺を引きずって湖沼に出向いた。獣が跋扈する禁断の夜である。人の発する熱や匂いに、血を滾らせた獣が集う。身の丈何倍もある野獣には熟練の理術師であっても生き残ることは難しい。
それでも私は彼女たちを水底に葬らねばならなかった。新しい生に結びついて、もう二度と私の元に訪れないように願っていたが、それは私の上辺であり、腹の底では息詰まるほどの幸福を教えてくれた彼女を、綺麗なまま心の中に安置したかっただけなのだ。
その後ひとりで森を彷徨えば、腹をすかせた獣と渡り合わねばならないが、死んだら終わりという気持ちはなかった。当然死ぬのであろうが、それ自体には興味はなかった。
たとえばグリーズの鋭い爪で皮膚を抉り取られ、四肢がもがれても良かった。私に叩きつけられる大きな力を味わいたかったのだ。ヴィヴラスの鋭い嘴が皮膚を突き破り、贄のように串刺しにされたとて、快感を覚える。物と物とがぶつかりあう時に生ずる力によって、私の体がいとも簡単に捻じ曲げられることが嬉しいのだ。
棺の中の屍、屠ることしか考えない獣、そして私と儀式、あの夜は完璧に整えられていた。そう、君達と出逢うまでは。
訊ねるが、今私が昂りを覚えているか、それとも悲しんでいるか、どちらだと思う。語句の端々に何か感じることがあるだろうか。あったとすれば、いずれも正しくはない。人の奥底にある気持ちなどわかりはしないからだ。
相手の気持ちを汲む、などといった行為はあくまで支配の手段であって、心を労してまで行うことではない。相手を慮った末に、ともに病んだりする者もいるが完全な愚行だ。私達の魂は人間関係によって形を変えたり、侵されたりしてはならない。
重要なのは自分自身の魂の頂点に、常に自分を置くことだ。
そうすれば人に依存すること無く自足することができる。魂が自足すれば、どんな濁流のなかでも泰然と己の足で立っていられるものだ。軸がしっかり育まれていれば、足もつかぬ難所を前に身ひとつで飛び込まず、頑丈な舟を作ろうという発想もでてくる。いかにも教職者らしい物言いだろう。無償の愛を永遠に流出させるだけが教会の役目ではないのだ。少しは見直してくれたといいが。あとは神と絡めれば形式として成り立つ。このような達識を平然と吐くことができるものが大主教に成れるのだ。嘘ではない。これを否定する者は、自分を善人として認識しすぎる特徴がある。自分を偽っていることに気づいていない為に精神がいつまでたっても成熟しない。
私は常に他者を蔑視しているが、私以外の人種がすべて愚かであるかというと、そうではない。私が大主教の地位につけたのは、私を信じる純粋な力が不可欠だった。その力は救いを望む数多くの人がもたらしてくれた。彼らは私を愛し、評価してくれている。彼らの目には謙虚で、自惚れず、民の為にあらゆる手段を用いる存在として映っているからだ。喜んで服従することを選び、私もまた善政をもってそれに応える。
領主の本質を判断する上で考慮される内面は、外側からの間違った視点であり、誤りゆえに狂った資質が問われることは無い。私は誰にも非難されることはない。
しかし君はこうも思っただろう。あの日お前は死にたがっていたし、必死に生きようともがいていた。年老いた今、そのような講釈を垂れるが、あの時の頂点はお前でなくて余であったと。正しい見方だ。あの夜、君は私を焼き尽くしたんだ。
もう少し話をしよう。君達はあの夜、森を彷徨う愚か者を助けた気でいるかも知れない。私は誰にもみせたことがない深層を暴かれ、屈辱と動揺を感じていた。むきになって言い返し、泣き喚いたように思う。物を判別することができなくなり、すがりついて、互いに拒みあい、私達は道の真ん中で殴る蹴るの乱闘を始めたようなものだった。うずくまる私に、君はただ「疲れた」と言った。折り重なって倒れ、理解を深め合うこともなく、私達はどこまでいっても別離していた。
焼き尽くされて、真っ赤な心を曝している私を待ち受けていたのは、くらくらとするような苦しみと、滴り落ちるような興奮だった。物と物とがぶつかりあう時に生じる力、それは何も暴力によってのみ生まれるのではない。私が求めていたのは、私を破壊してくれる大きな意思だ。私は見事に焼き尽くされ、切り刻まれた。
→220-221
→228-231
→280




