279 肉料理:----・------(71)
「狂うこともあった。いくつかの国を破滅に追い込み、いくつかの種族を痛めつけた。一時の享楽に身を委ね、今日があれば明日などどうでもいいと思いもした。そうした無責任さが極まって、過ちに気づいた時の絶望は凄まじかった。語るようなことではないが、乗り越えられたのは、私の生涯に意味を与えていたのが"彼女"だと気づいたからだった」
「ただ」
「それだけなんだよ。とても簡単な事なんだ。魅惑されたとか、彼女自身が美しい結晶だからではない。彼女が欲しいという欲望、それも少し違う。ごくふつうの愛という正論が私を導いてくれた」
「不満もあって、貴方の事をかえりみもしない。そんな人をどうしてそこまで追い続けられるのですか」
「この国はね、アクエレイルは私達が創った。何番目かの人生でね。いつも根底にあるのは我が家を整えたいという家父の気持ちなんだ。だってここは私と彼女の帰る場所だから……おかしいかな? 私は龍下と呼ばれて崇められているが、内側はひとりの女を愛するただの男だ。だから、報いはすでに彼女からもらっている。千年よりも前に」
「貴方は……千年とか五百年とか、途方もない時間を通年の単位として使われます。私なんかでは想像もできないことです。それはとても」
「きもちがわるい?」と、子供扱いをするので
「足りないのです!」と強めに返した。
「生き延びる活力となるような愛なんて私にはありません」
「なら今の内に目を磨いておけばいい。私のような愚か者と、彼女のような美しいものを両方見ておくんだよ。それがいつか胸の中で一つに結びつく時が来る」
「結びつく……」
貴方は愚か者ではないと、否定が口をつきそうになる。けれど、彼女の美しさと同じく、認識の話ではないのだ。二人の内面のもっと深いところにある最上の魂を見なくてはならない。尊敬する人がここまで決意しているのだから、付いていく以外に考えはなかった。
雨は容赦なく男達の刻んだ存在証明を薄めていた。血に塗れた少女の顔は少し和らいでいる。
(わからない。まだ多くの事に納得がいかない)
史上最も偉大な男が、少女一人のことで崖っぷちに連れて行かれ、熱に浮かされている。それでいいと全身で表しながら、同じ顔で万人を導いている。この大きな二重性が愛情に結びついているのだとしたら、愛とは、少年が知る限りもっとも強力な力だ。
人はつまらないことで死ぬ。目標や理想を掲げて遠くを見ても、今日あっけなく死ぬ。たとえば死を超越できたとしたら、安寧の数千年を生きるかというとそうではない。目の前の人は、この国を創ったと簡単に口にする。まるで先の事を確信しているようにも話す。実際できない事はないのだろう。けれど彼は温厚で思慮深く、愛情深い老人のままでいる。愛する人の為に殉じることだけが彼の生き方なのだ。
国のことすら、彼女を出迎える部品と言い切る姿は狂気だと思う。彼にとって人と分類されるものは、自分と彼女の二人だけなのかも知れないとも思われた。突飛な考えではないだろう。
(貴方方がそばにいるから、私は最上のものを見る事ができる。でも、"見つける"ことはとても難しい気がする……)
彼らの"特別"を前に、私の"特別"は霞んでしまう気がした。
すぐ目の前の顔をみていると、額のまんなかに水滴が落ちて飛沫がこちらの頬にかかった。空よりもたらされた贈り物は、身を横たえる少女の意識を呼び覚ます切欠を作った。雨の残る睫毛が震えて、ゆっくりと瞼があがる。
首を傾けていた彼女が初めに見るのは、白い制服を着た少年の顔だった。橙色を差し入れた制服が内に含んでいるのは、どういう顔をすればいいかわかりかねた、おぼつかない気持ちだった。
焦点の合わない目が、少年を見返すまでは少し時間がかかった。どうしてだか、じっと動向を見守っていた。何故かといえば、依然として龍下に背中を抱きこまれているため、触れるほどそばに相対していたからだ。それ以外にない。
雨にうたれた少女の視線はやや熱っぽい。彼女は少年を捉えると容易に「微笑んだ」。一瞬ぞくりとする。
龍下が背中を離したので、数歩多めに下がった。舌の置き場に困る感覚が、はじめてしていた。
「エリアス」
動揺をありありと見せる顔を上げると、何事もなく微笑む龍下はまるで愛娘を抱く父親のようだった。
「私は君の考え抜くところが好きだ。いつか私達の焦点が完全に異なっていると気づいても、私は君を愛したことを後悔しないだろう。気持ちを偽らなくていい。いいんだ」
龍下は予言めいたこと言った。
少女は龍下の胸に顔を寄せて、どのような表情をしているか到底知ることができない。故知れぬ残念さが寄ってくるが、その気持ちは少年の中で離隔したまま漂っている。まだ遠くに、漂っている。いずれどこへ向かうかは定かではない。
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