277 肉料理:----・------(69)
「エリアス」
「は……ッ!?」
言い切ることはできなかった。瞬きの刹那、遠くにあったはずの龍下の御身が眼前に在ったのだ。驚きを隠せぬ襟首を掴み上げ、更にたぐり寄せられる。必然、横抱きにされた少女の顔が触れられるほどに近づく。二人は歳が近く、背格好も揃っている。
反り返った腕には青い血脈が透けて見えて、頬には砂礫がこびりついて、全身白々と不幸で満たされていた。けれど不思議なことに甚だ抵抗をしたむなしい体は、男の手を縦横に受けたあとでも自堕落には見えなかった。
衣の下にある皮膚は、陶器のように白く滑らかで彫像に化身しているように見える。人が持つ生々しい醜さが少女の中には存在しなかった。快楽や欲望に唆されて行動することは人の源であり、切り離して生きることはできない。龍下に仕える意思も、龍下が最愛の人を望み続けることも、欲求という一個の法則に定められていることだ。
しかし彼女からは欲望に向かって傾斜する隠しようのない卑しさを感じることはない。閑静な邸の中で囲われていたことが起因しているのだろうか。彼女も欲求を持たないわけではない。家族に逢いたいという願いや、男の願いを拒絶し続けることも、欲求に分類される。しかし卑しさも生臭さも、彼女の魂を滑り落ちてしまう。決して留まることはできないのだ。歩き方や姿勢が良いだけでなく、彼女の体はもっと気高いもので鋳潰されている。
綺麗なひとだ。それは過言ではない。けれど目尻に涙を溢れさせ、家族の元に帰してと切望していた顔も、室内で花を愛でていた優しい顔などを相貌に見いだすことは困難だった。それでも龍下は直視を求めて少女の体を押しつける。彼の目は悲しみに溢れていた。暗く、うつろな目をしている事を彼自身でさえわかっていないのかも知れない。少年は身を離すことも拒むこともせず、望みのままに少女の顔を窺った。
いっそ毒のようだと思う。少女は露骨に不幸だった。筋の張った首や、唇のへりの窪み、唇の下が殊更照り返っていることに気づく。雨ではない。
言いたくないだろうに龍下が先に口を開く。
「……こんな汚れ……彼女には似合わないだろう」
「そうでしょうとも」
水気は泡立った唾液であった。
龍下の体が斜めに傾き、急に視界が明瞭になった。露台から漏れる光が分配されるおかげで、眠る体が夜の中に捧げて現れたのだ。顔や胸、手足、少女の体の重みは濡れた薄絹越しに感じられた。ひどく冷たい。彼女の体である筈なのに、意思はどこからも伝わってこなかった。まるで心はいずこかに出払っているように空っぽなのだ。
何もかも自分の自由にならないか弱い女と、誠実にその体を抱いている男をみていると、少年の心に情愛が溢れ出た。すでに襟首をつかんでいた手は離れている。男はすがりたくてたまらないのだと少年は思った。きっとその予測は外れておらず、同調し慰めることが自分の役割であると一種の確信をもった。
「衣にも手垢がついている……見てくれ…………こんなあからさまな……」
少年は少女の顔から首、そしてその下に視線を落としていく。肌蹴た隙間からのぞく胸は微かに上下している。曲線をなぞる血が奥へ滴っていく、その先にある一閃の傷は既に塞がっている。先程大量の飛沫をあげて血を吐いた傷はもうない。彼女は死を拝し、そして舞い戻った。「新生」という言葉が脳裏に浮かんだ。
言われたとおりに衣をみるが、乱れようは汚れを差し引いても詳しくはわかりかねた。元より何をいわれても同意するつもりであったから、男の慟哭に恐れもせず、前身をぴんと張って彼を見上げた。
「殺しましょう。嬲り殺してしまいましょう。泥と血潮に塗れても、屍を見いだして必ず御前に持って参ります。今、逃げた影ともども、"黒手"に追わせております。龍下、守り切れずお詫びの申し上げようもございません……私の失態です」
「……其方のせいではない。其方はいつも私を守ってくれる。彼女を守る距離まで近づけさせなかったのは私なのだ……」
彼女を守るのは自分の役目だと、少女の顔を見つめる瞳が強く語り掛けている。
わざと矢継ぎ早に伝えて、主題を自分へ切り替えると、龍下のまとう空気が少し落ち着いた。まだ擁護してくれる理性が残っていることを知れて、少年は次の言葉を待った。
「私は自由の話をしている………嫉妬しているのだ……戸惑ってもいる……滑稽だな、ハッ」
短い笑い声をあげても、龍下の顔は笑っていない。間引きの行われていない言葉が次々と漏れ出た。
「長い間彼女を見つけられなかった罰だろうか。奪い取った対価に私はこうまでも苦しめられなければならないのか。ならば、彼女はなんだというのだ。愛の堕落を知らず、破綻を知らず、終わりがないという怖ろしさを知らない……」
「……愛し合っていらっしゃったのでしょう?」
「そうだ…! だから足掻いたのだ。愛し合えば愛し合うほど、死に辿り着く。彼女を殺さなければならなかった。それが私の役目だからだ!! 見送る苦しみを…!!……彼女は判っていない……」
(24-25)




