276 肉料理:----・------(68)
男は、静かに、憎悪を迸らせながら、立ち上がった。
愁いに満ちた美しい庭の、基盤を揺るがす残骸に興味をもたず、気絶した女を腕に抱いていた。教職者特有の純白の礼装に、深紅の冠帯をまとう。式典執行時にのみ帯びる冠を常時身に着けているのは、男の顔が国民に広く知れ渡っているからだ。彼は国家そのものであり、私人ではない。
人々は白髭をたんと蓄えた微笑の甘い老躯に駆けより、わなわなと打ち震えながら額に男の指先を擦りつける。ある者は手に接吻をしようと首を傾け、老人はお返しに手をひしと握り返すと、苦しみ喘ぐ体に治癒を施す。信徒のもつ苦悩が身体的でも精神的なものであっても、荘厳な色に染め返されてひと時の安息を得る。歓喜に涙する者をみて周囲は驚倒し、ますます教会への信仰を深めていく。
彼の存在は徹底して美しかった。引きずる裾が土にまみれ、細部こそ年老いた男であるといった感覚的な真実を直視してもなお、美しいとは彼のことであると断言できる。夢の中で逢いたいと願った人が目覚めにそばにいてくれるような魂の安息を与えてくれる人だった。しかし一方で圧倒的な理術と豊富な理力により、その存在ごと宝珠のように飾りつけられ、国という棺の上にいつまでも輝く運命を背負っている。他ならぬ努力や成果によって、帰還できぬ領域に足を踏み入れてしまった可哀想な方。
その名を――
「龍下……」
少し離れた場所に片膝をついていた少年はほとんど無意識に彼を呼んだ。
振り返って欲しいわけでも、微笑みかけて欲しいわけでもない。雨の降りしきる庭で行われた儀式の最中、少年だけが闇の中で侍ることを許され、呻きも、短い叫び声も、噴き上がる血飛沫も双の目で見ていた。
少女から生じた光球にのめりこんだ龍下の体は、白光のなかに消えていくかと思われた。光景のすばらしさはいつまでも心に残るが、庭木、花、尖塔の残骸を照らした光は瞼の裏を焼いたあと直ぐに消えてしまった。闇が戻ると、ふらふらと頭を揺らした龍下は体の制御が思うようにいかず、倒れ込む上体を石畳に手をつくことで抑えた。投げ出された血刀が蹴り出されて静寂を滑る。龍下はそのまま地面に伏せる少女の顔を深く覗き込み、何かを繰り返された。少年の目には瀕死の女に祈りを捧げる男の姿が映っている。
(儀式は終えられたようだけど…………無事にお伝えすることができたのだろうか)
心配のあまり駆け出そうとする自分をぐっと堪える。食いしばる歯ですり潰した緊張が滲み出るも、余韻は暗闇に吸いこまれていくだけだった。
(龍下は別離の終わりは別の隘路に続いていると仰った。最奥に幸福があるのだから、千夜の苦労も目に映らないのだと……けれど本心である筈がない。つらい日々を過ごされてきた事など、かまびすしく泣き喚くことではないから仰らないだけなのだ。されば今何をお思いかは明らか。一夜の誤りなど、からからと打ち笑ってしまえる筈に愛していらっしゃる……あの礼儀を失した一族から彼女を奪い返したあと、あの方のお気持ちは雲の上にあるようだった。なのに……なのに、この沈黙はなんだ?)
少女を抱いて立ち上がった龍下は動かなかった。余韻に浸られているにしては少しばかり行き過ぎている。
星の光に一番近い部屋を与えて、信に置いた者さえも遠ざけ、大切に囲ってきた少女をこのような場で"開かねば"ならなかったことは、龍下の犯し易からぬ優しい仮面を剥ぐには充分な悪である。少女は表舞台に姿を現す必要はなく、遠景のなかに龍下と二人で描かれるだけでよい存在であると少年は理解していた。どこか世界の裏側で、風にそよぐ芒野のような場所で龍下と共に過ごしてさえくれれば、…そしてそれを見守ることができれば、無上の幸福を得るだろうと思っていた。
彼らこそが本当の家族であり、遠い雪の領地のことは養い親程度であると龍下はおっしゃっていた。にも関わらず少女は長年住んだ家を離れた不安から、信ずべきものを見誤った。自ら不幸になるという心の動きを責めることはできない。自分が不幸になることで、世界そのものが不幸になるとは、理解していないのだから。
龍下が少女をどれほど大切に思っているか、そして自分と少女の関係は、彼の元に引き取られてから幾度も説かれてきたことだ。話の中でだけ存在していた少女を初めて見た時、その可愛らしい姿よりも、彼女を見つめる龍下の顔の方が気になった。龍下は本当に幸せそうに眉を下げ、目尻も下げて、甘い言葉しか紡ぐことはなかった。これほどまでに他人を無条件に愛せる人は見たことがなかった。
三人の体に次々と雫が伝わる。湿気を受けて跳ね返る髪から覗く耳が、地を這うような声を捉えた。




