275 肉料理:----・------(67)
しかし今は顔にあたる雨雫を払うために目を開閉して、暗く、どこか諦観するように雑事にかかずらって気を紛らわせる振りをした。真に迫られて、負けを認められず息を潜めていると言いたげに男の視線を避ける。これは酒肴なのだ。苔の一群を見出すほど地に伏せ、死刑宣告を受ける今わの際。雨も静けさも、私が聖霊に好意を寄せているらしいと、ほかならぬこの男に印象付けるための演出となる。
「……ご覧のようにひどい負け方をしておりますので、抵抗しません。どうぞお好きに……」
私がそう言って顔を背けると、金砂をふった生地がすらりと胸を撫でた。衣擦れが耳を愛撫し、逸らした視線の端で、重ね衣の裏地が翻る。厚い壁の向こうがさらされているとわかった途端、初心な素振りをしていなければ、今すぐに高まった限りの頭を持ち上げ、目の前の香りの中に顔を埋めたかった。意識するあまり、ふくらはぎが引っ繰り返ったような痙攣が一瞬起こる。
想像を肯定するように胸の上をひとたび足が接すると、重みを感じた肺からやむなく空気が押し出された。闇の中に息をはきだしきる前に、喉頭に靴先が押し当てられる。
首を脅かす硬質な感触は、接した点から内部を浸食していくようだった。靴先はみるみるうちにのめり込み、背骨が浮き上がるほどに仰け反る。後頭部ががりがりと石畳を擦りあげて、痛みが走った。
「髪に白が混じるほど長く生きているのだろう。童ではないなら、いい加減正しい言葉を使うことを覚えねばな……」
言い返そうとする喉を潰される。首を左右に振れば逃れられると知りながら、奥歯の痙攣がやまない。私は打ち震えている――
「……血の気が多い。期待がとまらんか」
「ふ、……な、ん……の、こと…です」
「その粘着質なこころの有様は、たいそう重く作られている。仮の姿ばかりをみせて、好く好かんと手に入れてきたのだろう。お前が何人の女を腕ずくでおさえようとどうでもよいが、今宵は素直になれ……どうせここには二人しかおらん」
「……」
「何が欲しい」
「……あなたが」
「……面白うない。次で最後だ」
「……つぎ……あぁ、なんてご寛容な方でしょうね……」
もう言葉はない。次の言葉を間違えれば、この時は終わってしまうが、そうすると自分には何が残るのだろうかと急いた心を探る。おそらくこの男の理由をもって、死なねばならぬ。それに対してはさほど恐れはない。あの湖沼で私が望んでいた死をとどめたのはこの男なのだ。今一度死を賜るというのなら本望なのだ。ひとの身の上を貫く定めが再び私を貫いて、ようやく死を迎える。私にとっての死は終わりではなく、心の底にわだかまる光景への旅立ちに過ぎない。
ならばもし望みを伝えたら? 聖霊は私の望みが「死」であったことは知っている。にも関わらず願いを尋ねてくる真意は、私の願いが「別にある」と判断し、かつ「叶える気があること」を示している。既に「彼を欲する」という願いは否定されている。ならば私の願いは……
ぎり、と歯が鳴る。鼓動が速まり、血の急激な流れにより、どくどくと全身が刺激されている。どこも損傷していないのに感じる痛みは、男の存在に影響を及ぼされて引き起こされた感覚なのだ。呼吸が浅くなり、頭の痛みを感じる。彼は理術を使ってもいないのに、私を害している。
喉が引き攣る。決して潰されているからではない。烈しさが胸を小突き上げている。治療は困難だ。次に何が起こるのか、期待している。予測が都合のいい夢を見せるからだ。
「っ……」
私は生唾を飲み込んだ。絶句しているにも関わらず、言葉もないのに渇いた口を迂闊にも開いてしまった。優しい目ひとつかけられた訳でもないのに、男にすがろうとしている。
そうして私は破綻した。
唯一の救いは小声で告げた本懐を、男が確かに聞き届けたことだ。
私の上から退くと代わりに私が膝立ちになり、彼の前で祈るように見上げた。全能の存在は私をほしいままにした。私は彼を欲するのではなく、彼の物になりたいという心の声に従った。この精神的な比重は肉体を凌駕するが、この行為を是認すべきか否かは議論の余地がある。私の根本が覆されたのだから、私自身でさえあらゆる種類の罵倒も悲しみも訴えたい。今宵のことはすべて想定していない―――あってはならないことだ。
けれど、けれども、私と聖霊とをつなぐただ一つの単純な原因は、議論から引き出せるどんな"言い訳"にも結び付けることはできない。
これは正当化だろうか。そうかも知れない。
残念ながら私達を構築する情動は永久に秘される。これは口にするまでもなく自明なことである。
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