272 肉料理:----・------(64)
「いかが? さかさまの景色は」
「いたぁい……しんぷさま?」
窓枠に片手をかけて、ひらひらと白衣の裾を泳がせる男は「きみがもうちょっと大きかったら危なかった」と、力を込めて引き上げる前にちらりと息を吐いた。
言葉とは裏腹に足首を掴む力は強く、目線が合うまですんなりと引っ張られる。
「肩に掴まって」
「ぼく?」
「そう、ぼく」
言う通りにすると、にっこりされた。最後は人形を棚の上に戻すようにゆっくりと室内に下ろされ、まだ眠りのなかにいる弟に憚って、その人は口に指先を立てる。窓枠に片足だけを掛けて、十分に開ききらない体をねじまげて、かろうじて留まっている。どこから来たのかはわからないが、手が鈎針になっているのか、もしくは羽が生えているのではと思った。そういう種族がいることは教会学校で教わっている。少年にとっては白い装いをしていれば全員神父であるので、彼もまた食事を分けてくれる優しいひとだとなのだろうと思ったが、窓の下を駆けていく大人たちの声が、
「人が落ちてきたぞ!」
「なんだこりゃ、変な格好して……顔が見えねえ。鱗が……黒いぞ、ゾアルか?!」
「の、呪いにかかるぞ! 早く息を止めろ!」
と叫びあっていることまでは聞き取ることはできなかった。
「もう窓にのっかっちゃだめだよ」
跳ね返った髪を撫でてくれる手がなくなると、もう男の人はいなくなっていた。生温かい風が吹いて、その中に花の匂いと、顔をしかめたくなるような強い臭いが混ざっていた。足音は遠ざかり人の気配もなくなると、逆さまになったことも薄れ、また窓辺に顔を寄せる。
花壇を覗き込むと、足を滑らせたときに掴まろうとした跡が残っていた。瑞々しい葉が広がり、その中に淡い黄をぼかしたような蕾が黒い影の下敷きになっていた。思わずはっとして摘まみあげても、茎はくたりとして、―――まるで弟の柔らかな体の感触のように骨がない感じがした。死んでしまったのだろうか。地下の台所から水を持ってあがってくる母の顔がうかんで、おろおろしてしまう。もう一度蕾をつまんで、濡れた葉の角に斜めにもたれさせると、元通りになったように窺わせるが、少し顔をずらすと紛らすことのできない状態がはっきりと見えた。
「しんじゃった……」
「さよならは言えるか」
少年はわぁっと大きく驚くとその手についたおびただしい汗や、いつの間にかついた土ごと自分の衣裳をむんずと掴んだ。声は突然響いたが、振り返っても何もない。しかし惜しげなく、あたりに満ちる何がしかの気配は、何の変哲もないこども部屋を異様に映した。寝台が軋んで、弟が寝返りをうった。布地をたぐり寄せて、頭まで深く覆い隠す姿は「うるさい」と言いたいようだ。
いくらか綺麗な寝間着が無残に汚れたのをみて、その声の主は「ふふ、愛らしい」と笑った。樹々の梢が擦れ合うような不思議な音がして、そのあとすぐに聴きなれた鐘の音が響いた。その音は心にぴったりと寄り添って、不思議と意識のすべてが預けられた。真後ろに立たれ、いっそう親しいように抱かれても怖れは感じなくなる。そういう不思議な音だった。
「どこの鐘かわかるか」
「大聖堂の鐘だよ」
「物を知っているのう、賢い子だ」
髪を梳くように撫でる手は、毎夜眠る前に頭を撫でてくれる母の面影と重なる。もう一度さよならを促され、元気を失いながらも、花に向かって小声で「さようなら」と吐息をふきつけた。蕾は揺るがずに、命のひそみ入る隙間もないようだ。
すると後ろから伸びてきた真っ白い手が、体に覆いかぶさるように巻きつき、草花のうえに伸ばした手に重なる。触れあいはしなくとも、そばにあれば感じる人のあたたかさは、白い手から感じることができなかった。
「綺麗なものは好きか?」
「え? なぁに」と、振り返ろうとしても、ぴたりと抑えられた体はうまく動かせず、頬を白布に擦りつけることしかできない。花嫁のような白く薄い衣裳が波打って、とても綺麗だ。でもどうしてだろう――不思議と、衣裳をめくっても下に肌があるようには思えない。またたきを繰り返すうちに、触れたい気持ちがふくれあがる。けれど自分の手が汚れていることを思い出して、欲望は直ぐにおぼろげになった。
「花は誰が育てている?」
「え、おかあさん!」
「愛でていた花を折り取られて母はお前に怒るか、それとも受け入れるか」
「……わかんない」
言葉すくなに、それも音をしぼませて言うと、本当は怒られたくなくてわからない振りをしていることが浮き彫りになる。
沈黙がいやで真上を見上げると、首の痛みも居心地の悪さも忘れるような美しい顔が見下ろしていた。「わぁ……」と見惚れる声に混じって、鳥の鳴き声が続いた。鴉か、鷹か、喉を締めあげられて絶命する声とともに、大きな黒い影が空から降ってくる。
 




