268 肉料理:----・------(60)
「……ガオとプラシド、この名は貴方がひとりごとに口ずさんでおられた歌から取ったのです」
「なに?」
言い知れず不快になった訳でもないのに語調がきつくなる。ガオも自分の言い草に苦みを覚えるのか、耳に返る響きに参っているようだった。
「勝手に貰ったのです。お気に召さないかも知れませんが返すことはできません」
「召すも何も覚えておらん。お前は……妙なことを言う……」
ガオはこちらを見て、ひどく驚いた顔をした。顎をこすり、額にかかった髪をかきあげて、散らばった髪をそのままに大きく頷く。何かと瞳で問うと「その顔が見られたら、もう」とプラシドと頷きあっている。
益々判りかねるが満足そうな顔を見ていると妙な感慨が胸を埋めた。ちょっと開いた口から歌が零れそうになって慌てて指で塞ぐも、そのまま指の腹で唇を叩いて、何かをやり過ごす。それが何であるか追及したい気も、そうしてはならないような気もしていた。
思えばガオとプラシドという響きは、ガイオレラとプレシュートという古い神々の名に似ている。英雄譚を歌った覚えはないが、神名を騙るような不遜を避けて、響きだけまとう健気さを褒めてやりたくなった。きっとそこに深い意味はないのだろうが。思考の連鎖に歌ったものが、幼き耳に引ったくられようとは思いもよらなかったように。
不意に二人が初めて笑みを見せたときの、歯を見せた微笑が瞼の裏に浮かんだ。
名前を呼ばれて羞恥に顔を染めた顔も……
「どうかお逃げください。ここは私とプラシドが任されます」
言いながら厳しい顔で立ち上がったガオの目は、黒い外套を目深にかぶった乱入者を睨みつけた。屋根の頂に足を掛け、こちらを臨む長身痩躯の者たち。あとからも同じ装いの者が現れ、闇より着地する。ざっと二十名、眼探るまでもなく背後にも気配がある。
者どもは音もなく歩み寄り、群の中に四人を押しこめ始めた。狙いは教会の身なりをした男なのだろうが、仲間とみられたか、こちらも片付ける気でいるようだ。
背に隠すようにして前に立ったガオは、既に覚悟を決めた顔をしていた。ひっかかっているのは自分ばかりで、焦りが口調を速める。
「どうするつもりか」
「どうとでも」
「待て!」と、苛立った声で扇を振るう。
何か言い返そうと振り返ったガオの耳を光矢が霞めた。首をよじって身を低くした男の首筋に、雷光が絡みつく。血肉は飛ばなかったが、帯電した空気が万一弛みもせぬように十字に縛った衣裳飾りを一瞬にして黒焦げにした。「うしろを!」背後で別の術式が展開され理術光が踏み込んでくる。花弁三重の障壁を展開して防ぐと、外側の表皮を突き破ることなく光矢は消し飛ぶ。覆面たちは物言わず、一旦引き下がった。力量を測る意図が感じられた。
「全員帯持ちのようです」と言葉を残し、駆けだしたガオは追いすがる覆面の顔面を掴もうと大手を広げるも、狼のように躱されて空ぶった。まくった袖口が膨らみ、血管走る剛腕によって釦がはじけ飛ぶ。濡れた瓦を鳴らし踏みとどまったガオは鼻を鳴らしただけで物と思わず、ただまじまじと相手を見定めながら後退した。背を合わせると、興奮した熱気がまざまざと伝わった。
「……力量を測る頭があるようです。殺しにも慣れてもいる。次は連携を変えてくるのでしょうが……お早く。荷があっては我らの足でも追いつかれます」
「何故言われたようにせぬ。ともかくあれを連れて逃げれば良いのだ。家族の元へ帰り、好きなように生きて死ね。簡単な事よ。追いつかれる? お前達は俊足の獣でさえ容易く絡めとれるものを……」
「ふはっ、そんなもの子供の頃の話ですよ。もう今は体が重くて足ももつれ、若い者のようにはいかないのです。あぁ、どうしたのです、埒もないことは貴方が一番嫌うことでしょう。どうしてそこまで踏み込まれるのです」
「わかったような口を叩く!」
「わかっておりますから」
起伏の連続する家屋の上を駆け、黒衣ひらめかせて一斉に襲い掛かってくる。ガオは網にかかるつもりはない。機敏に動く相手をとうとう捕まえ、顔面を持ったまま腕力に任せて引きずり倒すと、起き上がったときには拳が赤く染まっていた。黒衣に巻こうとも中身は人であることが知れる。
なおも四方から向かってくる覆面をいなすことに忙しくする背中を見ながら、今度は後ろでプラシドの叫びがした。
「お待ちを!」
素性が割れるのを怖れて名を呼ばぬプラシドが伸ばした手は空を切った。先程まで喚いていた男―――庭から連れ出した大主教が逃亡するのが見えた。さすがに弁えて警戒しているようだが、黒衣の者が自らを救助しにきたわけではないと察して司教座に戻ろうと、手薄となった一角に向けて走り出していた。




