265 肉料理:----・------(57)
「口惜しさから君の大事なものをすべて奪った……許してくれとは言わない」
女の胸に縋りつくことなど、した事がなかった。男が女を守ることが美徳であり当然の事だと考えていたから、硝子細工のような細い体に自身を擦りつけて懇願しようとも思わなかった。しかし孤独になって、声を枯らして彷徨い歩くうちに私は疲れ果て、水たまりに映る自分のくたびれた顔を覗き込んだ。みすぼらしく、手入れのされていない垢まみれの顔だった。誰よりも愛していた人を、この手で不幸にした男のことを、私はわかりたかった。
旅路で様々な女と出逢って、自分は決して蝕まれないことでも相手は簡単に傷つくのだと教えられた。私の知る彼女は同じ道を歩んでくれているものと思ったが、まるで違う道を生きて、自分の考えを持ち、男の与える影響などほとんどないことも知った。女たちの"見てきた"ような指摘は気に障ったが、存外的外れではなかった。私の愛おしい人はいつも従順で慈愛に満ちていたが、私が導かずとも一人でどこへでも飛翔することができたのだろう。それなのに進むべき道を選ばずに、私のあとについて来てくれたのだ。私は己自身でその見地に至った。
何故そうしてくれたのかは語るまでもないが、果たして私はその献身に報いていただろうかと視線を落として振り返る。すると、記憶の中の彼女は物憂げに私の腕の中で憩っていたが、その眼差しは自分が進むはずだった道を眺めていた。あぁ、私達はひとところに落ち合う定めをもって生まれたとばかり思っていたが、彼女の忍耐によって成り立つ道を歩んでいたに過ぎなかった。
その真理に辿り着いたとき、少し安堵したことを覚えている。そういった「献身」や「深い思慮」が私に欠けていたというのなら補えば済むことだとわかったからだ。この胸苦しく残酷で見るべきものなどなにもないと思われた旅に意味があったのだ。
私は彼女をそっと道の上に下ろして、首の裏に回っていた手もほどいた。そういう甘い力を破ることさえ、胸が苦しくて指先に必要以上に力がこもった。今すぐに抱き上げて、地上の土など踏むことを知らずにどこまでも運んであげたい。けれど、彼女は見た事もない顔で笑った。笑ってくれたのだ。どうしてだか瞼が痙攣してやまない。嬉しいという気持ちだけでなく、胸をざわめかせる何かが涙を誘う。愛とは泣けるものなのかも知れない。どうしようもなくなって、記憶をそっと抱きしめる。
(……私は私のことを少しだけ理解した。そうすると不思議なことに、いつも君がいてくれるように感じられたんだよ……)
かつての自分が見れば情けないとなじるだろうことも、今ならば進んで叶えられる。ひどく無気力に歩いてきた道がほのかに色がついた。彼女ならもっと美しく色をつけるのだろう。それでも、これが私の道なのだと思うと誇らしかった。
余裕もなく額を首筋に押し当てる。頬に広がる筈の体温はなく、まるで屍体を抱いているようだった。もっと温かい日差しの匂いがした筈だ。思い出そうとしても思考に閃光が走って耐え難い。どのようにすれば目覚めるのかわからず、ただ待つばかりなのは立眩みがするようだったが、少しでも顔が見えるように髪を梳き、倒れかかる頭を支えるしかなかった。
仮にも世を万能に生きることができても、彼女の事だけはままならなかった。だからこそ、これ程までに愛しているのかも知れない。
「……私も共に死ねばいいのか? それもいい……いいんだよ」
君がいっしょなら―――音は弱り切っていた。こめかみが脈打って、もう何もわからなくなりそうだった。すると頭上で空気が動いた。頭髪を揺るがしたのは、ほんの少しの躍動だった。風ではない。触れあったわけでもない。けれど、それが人の熱だと直感を得る。得も言われぬ高まりを感じながら、恐る恐る頭を上げた。
「あ、っ…………う、う……」
嗚咽が零れる。彼女ではない、呻いているのは私だった。
睫毛に囲われほっそりと開かれた美しい目をみた瞬間、さざ波のように胸に広がるものがあった。美しい人が目覚めた。彼女の瞳の中に揺らぐ微光が胸を射抜く。なめらかな肌も豊かに色を湛えて、その存在すべてで男の生涯で感じた苦痛や鬱積したものを吹き飛ばしてしまった。いじらしく持ち上がる手を奪い取り、頬を摺り寄せる。彼女の熱が伝わって、いざという時の謝罪よりも先に、本心が口をついていた。
「やっと! 君を……! 君をどれだけ…! っ、あ、あ、あぁ……もう、もうどこにも行かないでくれ……! 私を置いて行かないでくれ…!」
「………」
「……声を、……声を聴かせて、愛しい人」
「………」
けれど濡れそぼる唇はいつまで経っても震えなかった。自分のために用意された美は、ただ飾り付けたようにそこに在る。在るだけだった。
「…………いま、……」
瞳を覗き込む。自分はまだ孤独なのだろうか? 深々と覗き込むと、彼女の顔は見捨てられた哀れな子のように見えたが、それは鏡面に映しとられた己の顔だった。顔から情感の色が抜け落ち、口角が鉛のように重く感じられた。
頬を両手で挟み込んで、ゆっくりと最愛の頭部を持ち上げる。細い体はこんなにも澄んでいるというのに、彼女の心はこんなにも――――罪深い。
「…………リリィ、今、他の男を見ているな?」
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