262 肉料理:----・------(54)
呼吸とともに生きる気力を根こそぎ奪われていくようだ。すべては避けようもなく、抵抗など無駄だと思わせる為に男は唾液をおし流して飲ませようとする。なおも激しく身をうちつけると歯がかちあって、骨を直接穿たれたような衝撃が走った。底の潤んだ瞳をきつく瞑ってうろたえると、彼は唇を離して顰めた眉を撫でつけた。「しー、しー……しー」歯列から漏れる息と、痛みの余波を逃がすように丁寧に往復する手は、遠いと感じていた男の心をそばに感じさせた。
雨は静かな旋律で男の輪郭を縁どる。身に降り積もる雨だれは、男の背という大きな雨覆いに吸いこまれて届かなくなった。地べたに膝をつき、一心に接吻してくるこの男の相手は私でなくてはならないのだろうか。心の事など気にも留めない独りよがりな男。殊更大事にしてきた善意や慎み、女の内側に泣き言を隠して生きる日々も、男の残酷さによって簡単に砕かれてしまった。父、兄、使用人、護衛、少女の知る男に、このような黙考する習慣のない者はいなかった。
(こんなものが、男だというの―――?)
じくりと胸が痛む。人を悪し様に思う苦しみが、男が撫でるうなじから巧みに入り込んで肌を焼いた。
蹂躙されながら思考に逃げることは、これ以上心が砕けぬように守る唯一の行為だった。その中で男を軽蔑し切れないことは、錯覚の見地であり、浴びせかけられた致死量の屈辱を忘却するための"逃避"でもあった。舌先で触れあうことで男が奪おうとしたのは少女の生命でも快楽でもなく、運命であった事は男しか知り得ない。
口の端、窪みに笑みを乗せて、男が何事か囁いた。"契った"などという妄言を根拠に成人もしていない体を求められる。少女は言われた通りに口を開いて、直に男を受け入れるしかなかった。全身に圧し掛かる重みは、すっぽりと少女の体を覆い、食卓の上で死に臨む賛歌を歌わねばならなかった。男に与えられた装いは雨泥にまみれた死装束になって張りつく。自分はもうロラインの色をまとう事はないと思うと、微かに安堵していた。あの紺青を穢したくはない。それこそ、もはや血の繋がりもなく、外の世界に出てしまった者の定めなのだ。
頭を傾ければ歯がかち合うことはなく、合わさった唇を無理やり引き離そうとしなければ、それだけ微かに押えつける力が抜けて、代わりに愛撫されることに気づいていた。この男は私に"甘やかして"欲しいのだ。少女ははじめて男という生物の幼さに気づいた。さなぎが羽化するように、まさしく女へと変貌と遂げながら、瞳を凝らして男を見つめ返した。
明確な意識をもって見つめ合ったその瞬間、夜空を背負って見下ろす男の目が、刹那泣いているように見えた。散々「忘れてしまった」と言い募るあの女々しい顔とも違う。今すぐ火がついたように泣きだしてしまいたいのに、雨がしきりにそうさせまいとしとどに濡らしている。だから男は泣き喚くことができずに、その衝動を口づけで果たすことしかできない。中身は幼稚で、駄々をこねている。山の嶺に沈んでいく夕陽を打ちひしがれながら茫然と見送る悲しさが、老いた相貌に満ちていた。
(わたしに何を求めているというの)
気質の変化を女が受け入れた気配だと察し、男はとうとう時が近づいてきたと音もなく笑った。襟できつく締められた細い首を撫で、眉間に宿る皺さえもあやす様に押し広げていけば、頑なに退けようとする力は雪崩れていく。
あとには狂おしい逢引が仕立て上げられ、自ら好んで舌を追い始める可憐さは数千年で凝固した情感をほぐした。押さえつける肌からは、行為の合間に甘く弾かれて硬直する激しい無垢さも仔細に感じ取ることができた。熱心に内側を探れば、彼女の小さな頭は左右に揺れて、女の兆しが芽生えていく。箱庭で守られ続けてきた少女の世界は崩落し、奥底の方から新たに積み上げられていくさまを指で感じていた。これは男の望みであり、彼女をひた隠しにしていたあの家への復讐でもあった。
息が上がって、鼻から抜けるような声が水溜りに跳ねた。稀薄な意識にまどろむ目は、それが自分の声だと認識していないと簡単に明かした。
「……君が還ってこなければ、この生涯になんの意味があるというのだろう……」
「んっ、あ、っ…………」
「そうやって私を救ってくれ……」
底にみえる裸の魂こそ、求め続けてきたものなのだから。
「……ぁ……あ、ん……んぅ」
「……は……」
「っ、……おね がぃ、もう」
「………もう?」
「それ……やめて…………ひっ」
何も知らない口は、それとしか形容できない。




