261 肉料理:----・------(53)
聴衆に聞かせるように言い募るも、返るのは雨声だけだ。長髪を散らして横たわる少女を抱き上げることもせず、男は思うままに悲憤を演じていた。
少女にとってその声の主は、自分を浚い、尖塔に押し込んだ相手に過ぎない。どれだけ記憶を探っても、"再会"と甘く縁どった言葉の意味を知らない。
初めて老人と逢った時、彼は心底青褪めてこの世の不幸を一身に背負ったような顔を見せた。気の毒で思わず心情を問いかけようとする少女に、錫杖を手放して一息に近寄ると肩を掴む。体躯の差から殆ど持ち上げられるように乱暴にされ目先が惑うも、傾きかけた体に力を入れて男を正面から見つめ返す。これから行われることは、これまで守り通してきた何かを破砕しかねないと思った。
首を覆い隠す口髭は真っ白で、袖の長い司祭服から伸ばされた手も皺が深い。けれど老いた男の手は少女が抗えぬ力で彼女を押さえつけた。せり出した顔から焔が吐かれて熱い吐息が顔にかかる。少女の至極物分かりの良い思考は混乱をするばかりだった。ひっきりなしに開閉する口から言葉にならない音が聴こえ、一つに絞ることができずに鳥が鳴くような嗚咽が漏れてくる。老人は何かを必死に伝えようとしているが、ロラインの大地がそれを拒んでいるような気がした。
圧倒されて足がくずおれると、老人はますます体を近づける。奪うように腰に腕がまわり、離れなければと本能的に土を蹴ると、仰け反った喉元に噛みつかれた。悲鳴。歯列から熱い舌がおりて、肌を押し込まれる。鼓動が脈打つ。やめてと叫んでも聴く者はいない。
既に何かの光が周囲に広がり、青い光の帯が巡っていた。空に描かれる古い文字を大きく開いた双の目で捉えた。薄い肌の下を味わう舌が首筋から耳元を擦過していく。息継ぎに開く隙間から、男の喘ぎが零れていた。少女は濡れた草木のように頭を下げて、逆さになった空と湖を見た。それが最後に見た故郷の景色になった。足が地面から浮き上がり、男のなすがままに唾液にまみれる。恐怖から目を瞑った。その後の事はもう――
いくら知らないと拒んでも、そうするだけ理不尽に「悪」になることを強要された。忘れた方が悪いのだと男は言う。家に帰ろうとする純粋な行為までもが、逃亡という不純な行為に上書きされて、罪を犯しているような気にさせる。
よく知らぬ相手ならば、対話をしてはじめて互いに納得して近づいていくというのに、この男はそれもせずに連れ去り、愛憎すらない心にただ熱く執着をねじ込む。
それでも少女は、男から齎される数多の行為を、「悪」であると断じてはいなかった。身を固めて、悲鳴を飲み込み、塔のてっぺんから美しい街並みを見下ろす。
結局ここに至っても孤独なのだ、どこへ行ってもそういう定めなのかも知れない。私が悪いのだろう。少女は自分ばかりを責めて、他人を恨むということを知らなかった。意地の悪い男の対処の方法など教わっていなかったし、他人は究極的に善人であるという認識のもとで育っていた。相手を一面だけで判断しないように気をつける優しさが、気の済んだ老人がいつか解放してくれるだろうと心算させた。待っていればいつかきっと、愛しい人たちが助けてくれる。そう思っていた。
遠く火消しに尽力する市民のざわめきが聴こえる。崩壊した庭は心地良い雨に沈み、白ずくめの男は全身傷だらけの少女のそばに膝をついた。仰向けに眠る赤子を愛撫するように、額にはりつく髪や、雨粒を丁寧に除けて「あぁかわいい」と言いたげな顔で「あぁかわいそう」と繰り返し囁いた。
「まだ思い出さないかな」
「……ぃ、ら、な…」
「要らない? 知らない?……あぁ、目まで傷ついてしまって。君はなんて無謀で無智で、そうやって生涯かけて男にあらゆる感情を味合わせて、楽しいんだろう」
大火傷と裂傷の刻まれた顔を撫で、局所的に治癒術をかける。目の周りに吸いこまれていった理力が彼女の体に馴染むと、瞬きのあとにようやく目が合う。男は大袈裟に喜んで見せた。
「その目だ」
「い、え に……かえして」
「どうして。もう用はないだろう」
「あ、る……」
「どんな理由か教えて」
治癒術の光が、相貌から喉にかけて愛撫していく。癒された肌は元の白皙の美貌を取り戻して、擦れた声も元に戻った。何度か咳き込んで、少女は少し顔を傾けて男を見つめた。憐れんでいると男は思った。
「………家族だもの」
男は言った。「違う。あり得ないんだよ。君は私と契ったのだから」
すかさず老躯が覆いかぶさり、空気を細く吸う少女の口を塞ぐ。
元より開いていた隙間に舌が入り込み、角度を変えて何度も何度も嬲られる。一も二もなく少女は拒絶したが、唯一残った手の平坦な場所を硝子片で貫かれ、石畳を返す足も、砂礫を擦過するだけで膝を折る事もできない。汗が噴き出して、一隅に追いやっていた悲しみが揺さぶられる。




