260 肉料理:----・------(52)
気づくと喉元をせり上がった血が一気に吐き出されて、横たわる目には赤い襷がかかった。黒曜石の光沢に一筋血の川が流れ、それはすぐに深閑とした森の中を流れる小川に差し変わった。こんなもの弱い心が見せる幻だとわかっていても、愛おしさが涙となって溢れ、振り払うことはできない。
これが私の余映というのだろうか、こんなもの――――
(みせ ない で……)
涙でかすむ目に、花やかな衣裳をひらひらと風に流して、心模様と同じように浮足立つ自分の姿が見えてくる。まだ幼いあの日、清流を泳ぐ平らな石に飛び乗って、水面の美しさも後回しに私はしきりに振り返っていた。
愛憎の遠因が近づくと、逃れるようにまた先に進む。青い光を放つ羽虫とすれ違う苔むした森の中、うねる樹々の根を難なく避けて、武官の威厳をほんの少し和らげた男がついてくる。木漏れ日の下で私は打ち寛いで「もっと」と強請った。道なき道の奥を指して、やがて帰る道を進む。
男は両手を胸の前で貝のように重ねて、楕円の隙間に色とりどりの花や葉を封じていた。私が持ち帰って押し花にしたいと言ったので、忠誠心から宝物のように恭しく捧げてくれている。その不釣り合いな姿がとても愛おしかった。
彼は父とも兄とも違う異性だった。いつどこでも付き従い、その冷たい眼差しで決して離さずにいてくれる。初めて我儘を曝け出した日を境に、彼はずっと私と同じ檻の中で生きてくれていた。それは父と血の繋がりがあり、領地を治める義務のある兄たちにはできないことだった。
風に吹かれて飛ぶような小さいものを丁寧に守る姿や、身の安全を思って堅い顔に不安を過ぎらせるのを見ると、深い場所で抱えていた悲しみさえ癒えていく。男の忠誠はあくまで当主である父にあり、彼は彼なりに父という絶対的支柱を穢さぬように、父の言葉を代わりに伝える道具に徹しようとしていた。初めて護衛官として紹介された時、父はただ一言バートリに向かって「お前の職務は娘の為に死ぬことだ」と言った。その苛烈な父に対して、バートリはすかさず了承を返した。
私はその時からバートリを見ていた。いつも距離を置いて、私の背中や横顔を注視するのを、私は鏡越しであったり窓硝子や水面の反射をつかって盗み見ていた。段々と妙に気安く、棘のある口調になっていったのも、彼の存在が次第に大きくなっていったからだろう。彼は時折私をわざと苛立たせ、弱音を吐かせるように導くこともあった。邸の中で、唯一心を曝け出せる相手として私の心まで守ろうとしてくれたのだ。
(やめて……)
樹々も空も褪色した静かなロラインの領地で、自分だけを識別してくれる相手がいることに、私は次第に夢心地になった。甘く揺蕩って、窓硝子にうつる彼の輪郭を指でなぞって……
(やめて!)
思い切り石畳を叩いて幻を払う。無数に流れ出た血の川が方々に弾けて、飛沫は顔に飛んだ。拭ってくれる優しい手はここにない。半端に残る腕と足に最後の力を込めて、もう一度意識を繋ぎ止める。
(いきたい……)
名を囁けば、貴方に届くだろうか。届けばいいと、心から願った。唾液と血の混じる口を開く。
「っ、ぁあ、………ばぁー……と、」
「こんなところにいた」
と、棘のように笑う声が突き刺さった。
男は続きを喋る前に心の底から笑った。すぐそばで笑みが降ってくる。それはいかにも怜悧な音となって私の体を阻んだ。
「理術の反射を知らなかったのかな。運よく屋根と樹が衝撃を和らげたようだが、君でなければ即死していただろう。ロラインは術の使い方ひとつ教えなかったらしい。君は本当に大事に育てられたんだね。愛するあまりか、それとも見つかるのを恐れてか、暴走や覚醒、すべてかも知れないね。だってそうだろう? 君なら身の内に溢れる理力で、その程度の傷なんてすぐに治してしまえる。そんな過ちすら犯さなかっただろう。なのに今の君は術式を知らず、理力の動かし方も知らない。痛みを甘んじて受け入れるしかない。本当にかわいそうだね……」
声色に悲愴はなく、本心ではないのだろう。それどころかこれは皮肉だ。耳朶を追ってくるのは重い執着にほかならない。男は笑いながらその実、燃え滾るような怒りを剥落させていた。腹の底を透かし見せる言葉を浴びせかけ、異様な話ばかりをしている。この男は私の顔をみればいつもそうだ。今もまた"知らない話"をしてくる。声は夜の中に聳え立ったまま近寄りも遠ざかりもしない、そんなに私が憎いなら、殺してしまえばいいのに男は論じるだけなのだ。
「君もひどいじゃないか。永いこと望んでいた再会がようやく叶えられたのに、目を離すと"新しい男"の下にいこうとする。ずっと待っていたんだよ。君が想像もできないほど長い時を、君だけを待ち続けてきたのに。なのにこれは傷つく」




