26 龍下と、
美しい中庭に面する涼み廊を進む。
司祭服に身を包んだ男の背に誘導されながら、四枚の翼を持つ男 A・ブラットは目線だけを地に伏せた。
丁度開花の時期を迎えた白い花が密に地面を覆っている。土を這うように匍匐する植生に、美しさを感じないブラットは冷ややかな視線を向けた。
「余り咲きすぎると枝枯れをすることがあるのですよ」
司祭が肩越しに振り返っていた。歩みが少し緩められる。花に落としていた視線を戻し、「そうですか」と抑揚のない声で返した。
角を曲がり、縫殿部の扉が見えると、口に絵筆を咥えながら壁画の修復にあたっている職人たちの後ろを通り過ぎた。刹那垣間見ただけでも、繊細で気の遠くなるような作業だとわかる。
屋根があるとはいえ廊下の一片は常に開かれているから、風雨などで損傷や劣化が進むのだろう。ブラットは商人会館に出入りする薄汚れた服を着た小作人たちを思い浮かべたが、今日の肩書きを顔に張り付け、すぐに思考から追いやった。
縫殿部の主階を見上げると、訪問する部屋の窓辺にご老体が立っていた。中庭を見渡しているのではなく、ブラットを見ている。格子によって十字にきられた姿は磔刑に似ていて、ブラットは微笑んで返した。
この国に生きる者は、人智を越えた大いなる存在や御力を信じ、己を枠にはめ、縛り上げられながら、法則として抱いて生きている。そして神を祭祀しながら、あのご老人のことを聖なるものとして崇めていた。
かつて「にんげん」が統治していた王城、その首座にすげかわった教徒たち。
その末代、己を【龍のもとに座す者】、龍下と名乗った――窓辺の額縁の奥で片手をあげるその人は、人のよさそうな笑みを浮かべている。
白髪髭、純白の三衣、そして司祭冠。
肩から足元に掛けて垂れる深紅の帯は、遠目からも鮮やかに映った。
白と赤―――この国を統べる者の色。
会釈を返すと、龍下は室内に消えた。先導する司祭は気づかず、縫殿部の扉を開けた。
◆
アクエレイル大聖堂 内苑――――縫殿部二階 応接間
「龍下、今日はご静養中のところ大変ありがとうございます」
一人掛けの椅子が二脚、部屋の中央で向かい合って置かれている。侍従が「お飲み物は」と訊くので、いつものように「水で」と答えながら席に着く。
教会の機関誌の発行を担っているA・ブラットは、商人としてでも、妖しい娯楽誌の発行者としてでもなく、記者としての顔をあげた。
龍下はずっと微笑んだまま、いつものように穏やかな口調で答えた。
「貴方との語らいは実りが多い。貴方は国民の声を代弁するために、身をやつし、仮借ない言葉を用意するための努力を怠らない。そのことを毎節嬉しく思っています」
「先程、下の縫殿部を覗かせてもらいました。告解祭に向けて、民に提供する衣服と、それ以外にも龍下のお召し物を作っている様子を見せていただきました。いつもより忙しないですが働き甲斐を自覚していると女官が嬉しそうに話してくれました。龍下の衣服は新しいものではなく、更生しておられると聞きましたが」
「私の服など一つあれば良いのですが、三家各部が口を揃えて新しい衣服を作るように薦めるものですから、かつて袖を通していたものを作り変えてもらっています」
侍従が机に水を置き、屏風の後ろに下がった。
「先日陽の日の共食をおこなっているブロートン・ブリットンで騒動がございました。負傷者は二人、どちらも司祭による治癒で完治しておりますが、罪を犯したのは掃きだめで生きる者、無宿の者です。文字が読めず、知恵もない。教会での施しについても知らず、知るのは他者から奪うことだけ。そのような者が増加傾向にあります。国の施策について龍下のご意見はいかがですか」
「気の毒な者が起こしたことについては聞いています。身柄は贖罪部にて預かっていますが、直接話をさせてもらいました。施策についても過去の欠陥は是正されるべきであると思っています」
「第三城壁外に家屋が広がり、赤の眼の塔の通行検査に過剰な時間と、多くの衛士を割いている現状についてはいかがでしょうか」
「開発は民、都市、国にとって大切なことです。ですが、そのために自然が失われ、汚されてしまうことがないように願っています」
「龍下のご健康状態はいかがでしょうか」
「貴方からお見舞いをいただきましたね。ありがとう。先節の暮れに、学者と共にマーニュ川を渡り、クライスの方まで足を延ばしました」
「まさか鉱山においでに? 鉱夫たちは大変驚かれたでしょう」
「石炭と鉱石の採掘はこの国の根幹産業ですから足を運びたいと思っていました。ああいったところで働き続ける方に感謝をお伝えしたいと。しかし熱烈な歓迎を受け、力強く手を握ってもらい、勇気づけられたのは私の方のように思います」
A・ブラットが知る限り、龍下が鉱山に赴くこと等予定になかった。
白服の集団が大聖堂を出れば、どよめきはすぐに商人会館に届く。ブラットは渡船などの一般的な方法を取らなかったのだと推察し、話に出た学者について切り出した。
「学者の方とはどのような議論を?」
龍下は途端に相好を崩した。
「怒られました」
「は」
「鉱山に行きたいと伝えた時に一度、あとは暴飲暴食を控えるようにと。どちらも、みなの知るところなのですが」
屏風の方を見て、再びブラットに視線を戻す。あの向こうで侍従が笑っているのだろうか。
「ご存知の通り、私の食事は典薬部が細かく決めています。ですがそれ以外に、果物を少し多く食べていまして。彼女はそのことに気づき、それはもう苛烈に叱りつけられました」
「………ロライン家のご令嬢くらいですよ、貴方を叱りつけられるのは」
「ふふ」
龍下は目尻を下げて微笑んでいる。
龍下を鉱山に連れて行き、食事について叱責するなど、彼に蝶よ花よと愛されている彼女しかいない。
ブラットは告解祭へ参加しないことを宣言していた彼女のことを脳裏に浮かべ、瞼を閉じた。きっとこれは一石を投じることになるのだろうと思うと口角が上がった。記者として擬態したA・ブラットの中に、膨れ上がった愛が口を開いた。
「そうしますと龍下、ご令嬢が告解祭へ参加しないと口にしていましたが事実でしょうか」




