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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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258 肉料理:----・------(50)

(この方はまた一つ見限られた……)


男は少女のまとう寂蒔が流れ去っていくさまや、遠目を利かせる横顔をこれまで幾度も見送ってきた。

一介の護衛官にとって、西方を統べる王の娘の存在はまるで架空のものだった。

目通りが許された日、あれほどの荘重な当主が選んだ娘なのだから、打ち解けた態度をしめさずに淡泊に振る舞わなければならぬと、近づいてくる小さな気配を注意深くとらえていた。扉の向こうから侍女に小声で問いかける声が聴こえた。「めどおりしてもよろしいの?」「旦那様がお待ちです」「わかりました」


彼女は自分の名を口にして訪いを報せると、にこやかに入室して、決まった場所で足を揃えて止まった。もう何十年とそうしてきたというような空気があり、当主への挨拶を済ませても横に控えるバートリの方は見もしない。

このとき彼女は既に礼儀作法などの教育が施され、高貴な血筋を感じさせる優麗な微笑を浮かべていた。護衛としてバートリが紹介されると、唇をほんのり持ち上げて悲しみとは無縁の花咲くような笑顔でこちらを見た。同席していた同僚は女神もかくやと瞬いていたが、バートリには冷たい笑顔に感じられた。子供の頃からこんな無意味なことに慣らされていいのだろうか。そうした懸念が渦巻くほどに、型通りにつくられた人形のようだった。挨拶を済ませると、少女は断定的に「これから毎日いっしょね」と言うので、思わず心がおののいて頷くことしかできなかった。微笑みは色を変えなかったが、その後少し打ち解けたあとに寂しかったと教えられてまた驚いた。いつしか少女を怖れていた気持ちは尊敬に代わり、彼女の存在はバートリの心に霞を引き始めた。


この娘を前にすると己の無知と中身の薄い情緒では何の慰め手にもなれぬことを痛感する。歳の割に聞き分けが良すぎて、理知的で、几帳面過ぎるきらいがある。成人していればそれが一般的だが、まだ乳歯も抜けきっていない幼い子だ。それなのに傅かれても増長することは一切なく、強請るのは抱き上げて欲しいだとか身体的な接触ばかり。首筋につけるようになった香水も、懸命に大人のふりをしたい少女の切なる願いの発露であり、初めて匂いを忍ばせた身を近づけ「どう?」と問われた時は一語も喋ることができなかった。お洒落について長々と述べる口上をただ聞いてやることしかできなかったことは苦い思い出のひとつだ。


「鳥が鳴いている……もう戻らなきゃ……」


領地の山も湖も、澄んだ空気も、深閑とした森も、すべては彼女のために誂えた世界のように思われた。ふさわしい目覚めを渇望されながら、あらゆるふさわしさから隠され、すべてが自分から遠ざかり、別れを告げる悲しい世界。

不満を漏らしても何かにつけて愛とくくられることに、彼女の心は耐え切れなくなってきている。純粋で、人の良い面だけをみようとする素直さが、人を恨むことを許さない。父を恨みたくとも、そうする自分が嫌で仕方がないのだろう。己へのやましさが積み上がり、今日のように抑えきれなくなる。


日に日に沈痛に匂いたつ横顔を見てきた。真っ赤になった目で寝不足だと笑うが、声色は泣いている日もある。自分の唇に触れて笑っているか確かめたあと一瞬泣きそうになるときも、ずっとそばにいるだけだった。


「お父様のおっしゃる通り、ずっとここにいてもいいの。此処はとても好き…………でも、そうしたらおばあちゃんになっても、ここで泣くのかしら。大きくなってもまだ迷惑をかけて泣くのかしら……」


ぽつりと吐き出された悲しみは様式的で、返答は求められていなかった。これは充ちるどろどろした気持ちをこの世のどこにも結び付けないように、吐きだしきらねばならないという少女が課した懲罰の儀式だった。そうやって自分を罰しようとしなくてもいいと、言えるわけがない。

黙って、かたわらに立ち続ける。彼女の小さな手が外套をぎゅっと握りしめていた。まるで糸車に紡がれたような繊細な声が二人だけの森に融けていく。


「どうしたいのかわからないの……外に出たいけれど、お父様の言いつけを破ってまで得るものなんていらない。お父様に呆れられたくない……要らないって思われたらどうしよう。こわい。それが一番こわいのに……思うことを止められないの。何回も何回も、だめって思うけど、心のどこかに穴が開いていて気持ちが漏れ出ていくの。壊したい、走りたい、叫び出したい………全部やってはならないこと、くりかえし……」


洞の中で姿態を横たえたまま、余韻を駆けて、少女の大きな目が男を見上げた。


「バートリ、嘘でもいいの」


少女は喘ぐような息継ぎをして、立ち上がる。落ちかける外套ごと抱きとめると、憐れな願いが体に直接響いた。


「……都のお邸の、小さなお部屋でいいの。かびが生えていても、門扉からすごく遠くても、真っ暗でもいいの。鞄の中でじっとしているから、一度でいいから外に行かせて。ね、嘘でいいの。嘘でいいから、そうするって言って。叶えてくれるって言って……うそでいいからそう言って。それで忘れるから……」


密接した体をつなぐのは絶望だけだった。少女を抱き止めるバートリの目の前を熟しもしない葉がはらりと落ちた。ひとりきりで泥水にまみれる葉を見て、自分の姿を重ねた。彼女の悲しみの為なら泥に塗れろと心が言った。






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