257 肉料理:----・------(49)
その物言いは冷たく、こうしている事など大して意味がないと言いたげで、寝そべる頬が不自然に膨らむ。こんな物思いのまま男の顔を見ることはできず、また男の目にもさらされるわけにはいかず、どうにもならない身をよじると狭い洞の中でごつんと頭を打った。溜息が聴こえたような気がして急いで耳を覆い隠す。
男は幼い頃から少女のそばに付き添い、雪の原に陽射しが反射する眩しい日も、村雨が通り過ぎるまで宮で雨宿りをしているときも距離を隔てて、侍女たちの向こうに立って、いっそ美しい愛想のない顔をしていた。
年嵩の男は、兄や使用人がするように少女を可愛い花のように大事に育てるようなことはせず、あくまで当主に与えられた役柄を粛々とこなしていた。敷地から出る事を許されぬ鳥籠の中の子供の警護は、男にとっても軟禁に等しかったが、少女の世界を暴力も怒号も悲鳴もない場所にすることだけに注力している男には、美しい設えの牢獄でも一向に構わなかった。抜剣に不自由しないように障害物や人の輪には極力近づかず、また護衛もたった一人の為いつでも孤独だったが、当人は少女に群がる野蛮な焔をはらうことができればそれで良かった。
「お怪我はありませんね」
白銀の髪から覗く冷たい視線が頭のてっぺんから足先まで順繰りに絡みついて、少女は堪えきれず整えきれなかった言葉を投げつけた。
「こないで。どうやって見つけたの? 絶対人目につかないようにしたのに……私の秘密の場所なのよ。ここが見つかってしまったら、もうどこへも行くことができなくなってしまうわ」
「敷地の外へは出てはいけません」
「行けないんだったら!」
すぐそばにある熱も、呆れの混じった空気も押しのけてしまいたかった。
その反面、退け時を失したこどもの迎えに駆り出されて、この人がどう思っているのか確かめるのは怖かった。朝露の残る森に入り、二人の編靴には泥がたくさんついている。じゅくじゅくと躊躇いもなく土を踏む音が、暗い水底にいるようで息がつまる。
何も考えたくないと思って考え、家に戻らなきゃと思い戻れずにいることは、疾うにわかっているのだろう。冷えた空気の中に情けなさがありありと滲み、自分自身を救うために少女はわざと声をあげて笑った。嘲笑は朝の森にかき消されて、自分もこのまま融けてしまえばいいのにと少女は思った。
男はかろうじて意味を受け取ったのか、無理やり連れ帰ることはせずに分厚い外套を毛皮のように少女のうえに被せた。体温が首の裏に近づいた瞬間、丸まるふりをしてちらと彼の瞳を探る。侮蔑が宿っていないのをみて少女は密かに胸を撫で下ろした。それと同時に兄や侍女たちのほかに、ひとりきりの生涯に道連れにしてしまう男のことを少女は気の毒に思った。
「……お兄様とのお話聞いていたんでしょう」
「はい」
「……こどもみたいって思ったの」
「はい」
「こどもだもの。貴方だって小さい頃はこっそり家を出た事ぐらいあるでしょう」
「ありません」
「うそよ……」
「一度も」
「貴方の子供の頃ってどんなものだったの」
「……めずらしいものでもありません」
少しだけ間が開いた事に興味をひかれ、少女は頬にかかる外套を指で摘まみおろすと、寝起きに求めるように浮薄に男の顔を見ようとした。足元に視線をおとしていた彼が顔を上げないように続けざまに問いかけると、思いのほか真摯に考え込んでいた。嫌がられてはいないことが少しだけわかって嬉しくなる。
「どんなおうち?」
「卑賎の出です」
「ひせん?」
「……けがらわしい出自の。知る必要はありません」
「けがらわしいってどういう意味? けがらわしい人なんていないって教わったわ。それに貴方は逞しくって、健全にみえる」
「……その問いかけは貴方の口から生まれるべきものではありません」
「拾われた子の口でも?」
「ご自分を大事にしてください」
「本当の事だもの。いいの」
「ロライン家は様々な企てを目論むものたちに常に囲まれています。成功であれ失敗であれ、餌を探し回っているものたちに弱みを握られぬようにしなければなりません。御当主がどれほど苦心されているか、いまは慮ることができなくても、矜持を手放さないでください」
「それでどうなるというの。私の為だというのなら、何もかも教えてくれないのはなぜ。貴方は何でも報告しているんでしょう? お父様は私を連れ戻した回数だけ褒めてくださる?」
「この地の時はすべて御当主が定めておられます。いずれその時は訪れるでしょう」
「……何でもお父様なのね」
少女は笑った。嘲笑が含まれた笑みでも男は不作法を咎めなかった。自分にとっては主でも彼女にとって父であり、その絶対的存在に何から何まで指図されている事は真実だった。身を起こして、ぼんやりと遠くを見つめる眼差しは欲するものを手放すことを決めた者がみせる贖えない衰えが乗っていた。




