248 肉料理:----・------(40)
(―――この女を抱いていた。私は、この女を……!)
焼け焦げた少女と同じ姿ではなかった。それどころか歳も背格好も異なる。けれど明確にディアリスの胸奥は同じ女だと叫んでいた。
今すぐにそばに寄って、その体の感触を確かめたい。
すると美しい女はひどく俯き、ディアリスから顔を背けた。脛のあたりに波打っていた白布がこぼれ落ちるも、背を見せた女の腰の形を露わにするだけだった。どうしてこの女は男の器に墨を一滴垂らすような真似をするのだ。見知らぬ男に恐れているわけではない。叫びもせず、小さく震えている……。きっと彼女は私を知っている。死に添い遂げようとした男だと知っている。その確信は言語を絶した。
きゅっと寄せた肩から曲線を描いて落ちる束髪が、艶やかに光っていた。身にまとう高貴さから邸の住人であると察したが、小さな宮が心を縛り付ける檻とでもいうように、彼女はただ白柱に頭を擦りつけ、滾々と流れる涙をぬぐう。
何がそこまで苦しいのか、教えてくれれば憂いを取り除いてやれるかも知れない。ディアリスは宮に踏み入ろうとした、その瞬間、柱の陰に男物の靴先を見た。そばに豪奢な錫杖の柄がディアリスの軽率さを咎めるように立っている―――この世でもっとも貴い男だけが持つことを許されたもの……
気付けばディアリスの体は浮き上がり、腹の間に強く入り込んだ男の腕に抱きこまれていた。体が浮遊し、そして次の瞬間には落下する。腹の中のものを吐き戻しそうになり、必死に口を結ぶと真下に灯りに照らされた庭があった。先程まで重なり合っていた女の肢体が遠ざかる。素早く横切る壁を見上げると、燃え盛る尖塔があった。戻ってきている。あの庭からまたアクエレイルに。
教区壁を飛び越し、ディアリスを抱えた男は増築された棟が連なる街区の屋根にどしんと着地した。ディアリスはようやく、自分を抱えていた者の顔を見上げた。あの豪快な笑みを浮かべたガオの真面目腐った顔を。
「なぜだ」ディアリスは素早く問いかけた。
ガオは逸る男に何も答えず、あらぬ方を向いた。武骨な顔に雨だれが滴り、堅く閉ざされた唇の脇を通った。「これは何だ!」と、ディアリスは語気を強めた。身の内に怒りが湧いて、ガオから数歩離れる。足場となる円を半切した瓦は表面がざらつき、短靴の裏を適度に押し返す滑り止めを果たした。闇と雨で濃紫色に変化した屋根が連なり、それらは殆ど同じ高さにあるため同色の床があるように思えるが、切れ目に落ちればただでは済まない。
雨足は強くなり始めていた。もしここで誰かを害しても、幸いにして混乱がすべてを隠すだろう。いつでも詠唱できるように体内の理力を意識すると、頬に別の視線を感じた。ガオはいまだにこちらを見ていない。何かをじっと見つめている。何を――
引き寄せられるのを感じた。あたかもそうせよと操られているかのようにディアリスの首はひとりでに動いていく。反して"見てはならぬ"と本能が警告した。
屋根の上に、先客が二人。
大聖堂の各所から火の手があがり、黒煙がうねりをあげて夜を押し上げていく。火の揺らめきに覆われた街は屋根も壁もどこも赤く染まっていた。よりによって尖塔から噴き上がる炎は、この国の心ともいえる大聖堂に次々と引火する。塔は灯台のように煌めき、昼間のように世界を照らし出していた。騒ぎに気づいた市民が路面に飛び出すと司教座を指差して、わぁと悲鳴をあげた。その横を火を怖れない男達が桶や梯子をもって駆けあがっていく。
まるで花蜜に群がっていく羽虫を見るように、悲鳴も団結の掛け声も聞き流し、無感動にアクエレイルを見つめる男がいた。火焔には興味もなく、扇を手のひらのように開き、耳元に寄せている。雨を聴くように。そして、そんな男のそばに従者のように傅いている男がいた。
ディアリスは笑みを引き攣らせてたまらずに叫んだ。
「プラシド! ハッ、貴方方は……………これはどういう事ですか。まさかあの落雷は、貴方方のせいなのですか」
「…………閣下、私とガオは無二の同士なのです」
傅いたまま関係のないことを答える男を睨む。
「そんな事は聞いていませんが、構いませんよ。先程貴方方に頂いたウェリッシュの酒瓶、預けたままになってしまいました」
「……本当に飲んでくださるおつもりでしたか?」
「皆で分けるつもりでした」
「信じたいのです、閣下……侍従の方々は貴方の本性をご存知なのですか」
「本性とは?」
どうなるかわかっていて、ディアリスは問わずにいられなかった。
「貴方はあの方を殺そうとしていた」
「あの方? 誰の事でしょう」
「……死を冒涜した貴方に私達をなじる資格はありません」




