244 肉料理:----・------(36)
「閣下。そのような暗い男との話などやめて、どうぞこちらをご賞味ください」
プラシドの声を聞きとれず、声の方を向くとあたかも生い茂る草原から猛獣が近づいてきたかのような錯覚を見た。語り合う無数の肩が彼の為に道を開けていたが、すれ違いざまに男女に向ける涼やかな顔は男に対して悪い印象を持たせない。
獣に例えても差し支えの無い大柄な体躯がつくりあげた陰が、ディアリスの体を余すところなく覆った。杯を差し出した男は、傷痕のある唇に舌先を乗せて笑っていた。思わず釣られて微笑み首を傾げると、男はまだ手に残る杯を抜き取って黄金色の液体が半ばまで注がれた杯と交換した。立宴で供されている食器とは形状が異なっていた為、香りを確かめるふりをして口をつけなかった。男も別段嫌とも思わずに、代わりにディアリスの口をつけていた杯を一気にあおって手近な卓に置く。豪快な男だ。
「プラシドさんのご友人とは貴方だったのですね、ガオさん」
「言ったでしょう。またお逢いできると」
穏健な豪商を暗い男と称することができるこの男もまた、ホルミス領の豪商であった。よく声が通り、よく笑う。およそ負けを知らないような放埓さが満身から発せられている商人らしい男だ。玩具箱をひっくり返したような賑やかさがあり、それでいて聡明さも持ち合わせている。二人で話した時はホルミスの所有する鉱床や鉱石の加工についての技巧的な話をしたが、ディアリスはこの男が匿名でヴァンダールのいくつかの施療院に寄贈していることは知っており、男も得意になって聞かせるといったこともなかった。
「ガオさん……些か言葉が過ぎるのではありませんか?……ディアリス様、申し訳ありません。この者は商人の中でも粗忽で知られております。逢ったことは忘れていただくのが無難かと存じます」
「とても仲が宜しいのですね。構いません、ガオさんのお話もとても楽しかった。もしかしてこれは先程お話くださった、"芋"から造られたお酒でしょうか」
その言葉に「ちょっとお待ちください」と、プラシドが腰を浮かせた。二人の間には一人分の余裕があったが、彼が顔を寄せたので、片眼鏡の縁についた細い金鎖が揺れるさまがディアリスの目に間近に迫った。硬い鎖が柔い頬に影をつくり、それは彼が動くにつれて左右に揺れた。これから三人の空気が変質すると直感的に捉える。
この出逢いには何か含みがあるのだろう。こうした事は今に始まったことではない。異なる地方の豪商が足止めにくる理由を探るため、ディアリスはやや寛いだ演技を続ける。
「まさかウェリッシュですか?……閣下、お酒はどの程度嗜まれていらっしゃいますか? 不要な親切かとは存じますが、お飲みになる前に匂いをお確かめになってください。酒好きでも賛否があるのです」
どことなく真に迫った語調に、ディアリスはおそるおそる杯を近づけた。
「……これは、芋というより薬草のようですね。青果の液、甘草の根……」
「あぁ優れていらっしゃる。その通りです。こういってはなんですが、病院のにおいではありませんか?」
「わかります。ふふ、そうですね。薬草室のあのにおいです。まさか味も?」
「味も、まさしく」
ディアリスの機嫌が損なわれていないのを見てプラシドは安堵したあと、肩をすくめてガオを見上げた。目線に気づいた男は含みのある笑みをこぼした。
「プラシドとは付き合いが長いのです。所謂商売敵です。しかし、逢ったことを忘れろだなんて、普段から私をどう見ているか知れるというものですな」
「挨拶もせずに割り込んできて、選りに選ってウェリッシュを手にしているとあれば、その手を叩かなかっただけでもありがたいと思っていただきたいものです。閣下のお心が寛大で本当に救われます。このような場で私共のような商人とお話をしてくださる方は得難いものです」
暗に"教職者"へのあてつけも含まれていると察したが何も言わなかった。教職者は同じ白服同士で集い、あまり外と交流を持たない。他の職種を下に見るものも少なからず存在する。
「私は人と話すことが好きなのです。特に商人の皆さんのお話は実際に直面された自分史を、つい今しがた有ったかのように話して下さる。それを聞いていると私も一緒にいたように感じられる。ガオさんにはアクエレイルのお酒の話を教えていただきました。ヴァンダールでは葡萄畑が多く、果汁から醸造した果実酒や、果実をいれた混成酒が主流です。一方アクエレイルではさらに多くの蒸留酒があり、穀物を原料にしたお酒もあると聞いてとても興味が湧いたのです。私自身はお酒をそこまで嗜みませんし、知識は浅いのですが」
「私の話を"何を聴いても面白い"と褒めてくださった。ウェリッシュも飲んでみたいと仰るので、ならばホルミスの商人の端くれ、今すぐに用意せねば男ではない。酒蔵に顔を出して酒という酒を吟味してきた次第です」
「まさかここの酒蔵を漁ってきたのですか? そうなのですか、本当に? まあ……一番立派な豚が、一番いい葡萄を手にするという故事がお似合いでいらっしゃいますね。まったく……」
ガオは豪快に笑った。




