243 肉料理:----・------(35)
今日感じたあれこれは忘れて、初めから二人で食事をしにきたような気持ちで互いの心をいざり寄る。
プラシドの落ち着いた身振りや単調な唄を口ずさむような語調は、彼の中に毅然たる生命の灯火があることを感じさせた。その火は燃え盛る大火ではなく、机上に置いた小さな蝋燭だ。風に吹かれれば容易く揺らぎ、か細く白い骨身に触れれば倒れてしまう、どこの家にもある小さな蝋燭。けれど彼の風体には風を避け、蝋を継ぐことを知っている、家業をまもりぬいてきた家父の力強さが表れていた。
事実に信を置く考え方も、言葉の端を拾い読むことなく、沈黙を綻びのように繕うところもディアリスの好みであった。大主教に就いてから、どこかにもたれかかって放心することも許されない忙しない日々を過ごしていたが、今日は少しの戯れでも心底おかしく思えてくる。自室であれば声をあげて笑っていたかも知れない。そういう場でない事が口惜しく思えた。
アクエレイルにきてから連日凝っていた肩から漸く力が抜ける。自領から離れて、こうして穏やかに相槌をうってくれる相手がいてくれることが嬉しかった。私は寂しいと思っているのかも知れない。その気持ちに気づいても驚きはなかった。
「長逗留なさるのは今回が初めてと仰っていましたが、アクエレイルのご印象はいかがですか」
「どれもこれもヴァンダールとは異なります。どれから言ってよいか言葉が溢れますが、昨日理術研究所を視察して、いちばん研究している事柄について学者と話をしました。非常に有益な時間を過ごせました」
彼は惜しげもなく目を開き、すぐさま訊き返したくてたまらないといった顔を見せた。ディアリスはプラシドが興味をひかれるような話をわざと選んでいた。
その時楽隊が曲目を変えて、透き通るような弦楽器の音が二人の会話を少しだけ遮った。かろやかに身をめぐらせて踊り始める男女をしばし眺めてから顔を戻すと、自分が失態をおかしたことに気づいた。男との会話に飽きているといったことは一切なかったが、対話の最中に他者に注意を向けることは失礼にあたる。顔を曇らせたディアリスに気づき、プラシドは微笑みを返して「構いません」と首をかすかに振った。
「お疲れのところを引き留めているのは私なのです。謝るのは私でなくてはなりません、閣下」
「無様な面体をさらしてしまいました。貴方は私を許さない権利をお持ちです。何かお望みであれば、なんなりと」
「気が収まらないというのであれば……では、お名前をお呼びしても宜しいでしょうか。今日二度もお話する機会をもてたことは何かに引かれているような気がするのです」
「あぁ」と感嘆を漏らして、ディアリスは華やかに笑った。
「ではディアリス様、続きはあちらの長椅子でいかがでしょう。さあどうぞこちらへ」
長椅子に腰かける際には、後悔を連れて行かぬようにわざと胸を張って切り替えてみせた。若者のような言葉選びをしていることも、失態を後悔している曇り顔も、実のところはディアリスの計であった。信の置ける相手には、資質が欠けた者を演じて、なんにでも肯う細君のような愚かな尽くし方をする。そういった性的嗜好を"今日のディアリス"は好んでいた。
「理術研究といえばヴァンダールも盛んになさっている印象ですが、それでも発展に寄与することがありましたか?」
「勿論です。同じ研究といえど方向性が異なりますので……そうですね。ご存知の通りヴァンダールは病毒に侵された過去があります。幸いにして市民と共に乗り越えることができましたが、二度と襲われないと断言はできないと思っています。病を怖れて遠ざけるのではなく、はっきりと存在すべてを究明することで根絶することができないかと考え、病理を専門とした施設をつくりました。アクエレイルの研究所では術そのものを専門にしていますが、我々は病に抵抗できる術の研究をしています。似て非なる互いの成果が、更なる希望を実らせることを願ってやみません」
「今の貴方様を見ていると、私はとても莫迦らしいことをしているように思えてきます。立派な志をお持ちでいらっしゃる。病理研究とまで掲げるのですから、施療院よりも規模が大きいものと推察します。市内にそのような施設ができて、市民は心配しているのではないでしょうか……勿論悲しむべき事が起こらない事を祈っておりますが、設立までに大変な苦労がおありだったのでしょう」
「病の原因を探るという事は、広く見て、今後のヴァンダールの為に必要なことです。おっしゃるように土の下に埋めた痛みを掘り返すことでもあります。本当は深く、深く、おしこめておきたい痛みを……反対も賛成も、色々な人が話を聞かせてくれました。それでも私はやらねばならないと思っています」
「目が醒めるようなお言葉ですね……貴方様はヴァンダールだけでなく、この国に必要な方だ」
世辞である事を弁えつつ、はにかんだディアリスは肩に落ちた髪を後ろに避けながら、毛先を指にからめて弄んだ。それは獣が自らの毛を舐るのと同じ行為であった。




