242 肉料理:----・------(34)
ディアリスはなるべく威厳を保ちながら、柔和に相手の話に耳を傾け、海港都市に対する意識や貿易に関する情報を集めていた。
大主教になってから数年が経ち、富者と対話することにも慣れている。彼らは大抵豪奢な衣に身を包み、装飾品で己を飾り立て、笑顔の裏で人を出し抜くことだけを考える。そういった強い眼の動きに囲まれても、何も感じなくなっていた。
大主教という座にあるがディアリスは元々茅葺き屋根の小屋に押し込められて幼少期を過ごしており、その後も教会で質素な暮らしをしていた。贅沢を知ることになるのは大主教になってからではあったが、それでも欲望のままに散財するような事は一度もした事がない。
「また機会がありましたらお話を伺わせてください。それでは」
至極平坦な挨拶をして輪から離れる。今夜何度同じ言葉を吐いただろう。気疲れを感じ、手近な卓から盃を手に取る。悟られぬように縁に唇を押し当て、細く溜息を吐くと、何も入れてない腹が重く感じられた。食欲もなく、これ以上酒を飲む気にもなれなかった。
「ヴァンダール大主教閣下にご挨拶申し上げます」
振り返ると、恰幅の良い男が顔をあげたところだった。
男は歩み寄ろうとする私を片手で抑え、わざわざ前に回り込んだ。賑わう広間中央を背にして、私の前には人の良さそうな笑顔と大輪の花飾りだけがあった。
彼はプラ・シドという名の材木商人で、アクエレイル西南一帯の森林権を所有している豪商である。植樹、仕入れ、加工、販売を一手に担っており、所有している貯木場や製材所は複数、それもアクエレイルやロライン、シュナフに販路を持っている。ディアリスが広間に入って最初に目を合わせた人物であり、ヴァンダールでの林業に生かせる知識を吸収させてもらった時など今日最大の有意義な時間といえた。
「プラシドさん、またお目に掛かれて嬉しく思います。ご用事があるとおっしゃっていたように思いますが、何かございましたか?」
「そうなのです……友人が少し。ともあれ、そのおかげでまたお話する時間を作ることができました。改めて御礼申し上げます。先程は貴重なお時間を割いてくださりありがとうございました。家業などのつまらない話を真面目に話し過ぎてしまったと悔やんだのですが、名前まで覚えていて下さるとは」
「私は貴方のような理知的な方が一番好きなのです。ヴァンダールは海運は盛んですが、乏しい分野もございます。その点、プラシドさんの林業の話はとても参考になりました。時間が許せば、またお話を聞かせていただきたいと思っています。ヴァンダールにいらした際は是非お知らせください」
「私のような時代遅れでも良いと仰ってくださるなら、必ずお訪ねいたします」
穏やかな目も、笑みも、彼の柔和さを表している。プラシドという名は常緑の高木の名前でもあり、黒色に熟した果実をつけるが、実をすり潰すと出る液体は虫避けの効果がある。そのためプラシドは古来より薬効樹木として知られている。材木商であり、知識人である彼に似合いの名前だ。
「閣下、二度お声がけする不躾をお許しください。またお節介もどうかお許しください」
「お節介ですか?」
「はい、閣下のことはこちらにいらしてから拝見しておりました。かのヴァンダール大主教その人でいらっしゃいます。本来であれば、この広間にいる大半が面前に立つことさえ許されない御方。今日は農牧で財を成した商人ばかりで、どれほど恵まれていることかわかっていないのです」
「構いません。周囲にどう言われようと、ありのままの言葉をお聞きしたかったのです。それに今日の私はヴァンダールを売り込もうとする商人といえるのかも知れません」
「ずっとお話を続けていらっしゃるのを見ておりました。お疲れでしょう。少しでも御目を休ませた方が宜しいかと存じます。向こうを見ますと、まだ色も目線も乱れております。そこで私のような華のない男であれば、いくらか目に優しいのではないかと……お節介ですね」
「私を気遣ってくださるのですか…?」
荒れた心に厚意が沁みて、少し頭の回転が遅れる。ディアリスは先程初めてこの男―――材木商人プラシドと話した時の事を思い出していた。自分を飾りつけることに熱心な者が多い中で、彼は簡素な儀礼服をまとい、装飾品もつけていなかった。片眼鏡だけが唯一、そのずっしりとした体形に異なる色味をつけているが、全体的に落ち着いた感じを与える男だった。父が居たらこのような歳だろうかと、すでに永い年節感じていないものを思い出していた。
「従者もつけず、お一人で苦労されたと思います。お辛ければ私の話を聞くふりだけでも構いません。口は読まれぬよう隠しておきます」
「こんな風に」と、盃で口元を隠してにこりと笑う男に、ディアリスは顔に張り付けた仮面を少しだけ崩した。こぼした吐息はすでに喜悦が滲んでいた。




