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同じ国、同じ街に住み、同じ時を生きていても人々の暮らしは社会的な地位や職業によって異なる。
庶民であれば、家を守り、金を稼ぎ、食事の支度をして、子供を育てるといった日常のすべてを自身の時間を使って成し遂げなくてはならない。一方で、富者であれば召使いに傅かれ、食事も仕事も一言二言差配するだけで済み、ほとんどの時間を趣味嗜好に宛てることができる。
―――といったものが、この国に横たわる格差の一般的な認識である。
この認識は実情に目を向けているとはいえず、曖昧で、"人が生きる"というこの世ならぬ美しさを省いている。
しかし相手がどれほどそばにいようと大切な人の心情さえ読み違う我々は、互いの暮らしの中にある幸福や苦労を都合よく余所に置き、自分だけが特別であるという愉悦や、自分だけが不幸ではないという慰み、不幸でいることが宿命であると納得を得るためだけに、大局的に捉えたこれらの通説を受け入れている。この自虐的な認識が流布されたのは、新聞の片隅で連載されていた穴埋めの小説が大きな影響を及ぼしていた。
とある富者の家に仕える召使いの言葉で語られるその物語は、裕福な者なら決して人前では見せぬような心の醜さ、ずる賢さ、人を悪し様にいう場面などが生々しく描写されている。登場する家名は架空であると銘打ち、幾分か遠慮する姿勢は見せているものの、実際の典礼や行事について書かれていることや、その場で起きた男女の機微にも触れていることから、著者がそういった場に出席できる者であること、また名家と縁があることは明らかだった。
主人公は裕福な者を憎く思う召使いであるため、作中での富者の描かれ方は一方的で、華美な生活をするほどの資質がないと冷笑を向けられる場面が多くみられる。しかし、主人公の雇い主である邸宅の主は、召使いが家庭教師になるために勉強をしている事を知り、援助を申し出る。主人公は初めは断るものの、その後自分がいかに憎しみに囚われていたか気づき、援助を受けて学校に通い始める。物語の根底にあるのは他者への友愛と労わりである。
過剰な筋書きの中に織り込められている迫真性は読者を引き込み、富者の女性たちの間で特に好まれた。上層での流行から随分と遅れて、新聞を読まない、また存在も知らなかった庶民層にも酒場や道端での口伝によってゆっくりと広まっていった。
結果として識字率の向上や新聞の売り上げ増加などの好影響もあったが、登場人物たちの思想が民衆の心の中で明文化されていなかった"自分と他者を明確に区別して比較する"という無益な照合を生んでしまったことも確かだった。
富者の間でも小説自体を低俗と思う者はいた。しかし著者や新聞社に裁判を起こすものはなく、娯楽として楽しまれた。あくまでも架空の家の話であり、彼らにとっては召使いたちの恋模様や、小さなことで喜びを感じる庶民たちの健気な姿は、葉群が重なり合って咲く花の群生を眺めているような、それら自体が心安らぐ景観のひとつといえた。
「何か楽しい事はございませんか? 近頃は暇を潰すことにも苦労しているのですよ」
杯を揺らす手首をしならせると、金の腕輪が光を集めて煌めく。宝石が随所にはめこまれており、神経質に強張った腕に張り付いていた。
男はわざとらしく芝居がかった溜息をこぼすと、周囲の女性たちは胸を弾ませて目を見交わした。陽が沈むとともに始まった晩餐会は、楽隊が演奏する夜曲とともに穏やかに流れていたが、今夜は初めて見る顔も少なく、新鮮な話を求めていた彼女たちは頬を赤く染めて、少女のように笑った。腕輪をつけた多弁な男もまた、ひしめく人々の肩の間で小説の台詞を語るほどに心を明かしている。
「とうとうお読みになられましたの」
「ご感想を聞かせてくださいませ」
「えぇ、まったくもって面白おかしく楽しませてもらいました。皆さんがお薦めする気持ちがわかりましたよ」
笑顔に嘘がないことを嗅ぎとり、女たちは早急に語りたいといった気持ちが膨れ上がったが、頬に優美な笑顔を乗せたまま逸る気持ちを抑えた。社交の場では情感をあまり表に出してははしたないとされている。
本当は腕に抱きついて今すぐに人気のない長椅子に引きずり、語り明かしたいところだとしても優雅に微笑んでいる。
そして同時に、女たちは周囲の男達が誰と懇意にしているか、取引の相手、賄賂の額、笑顔の裏で誰を嫌っているかという話も誰よりも細かく知っていたので、そばにいる別の男が小説に興味がないという事も把握していた。
案の定先程まで織物や硝子などの販路を熱心に語り合っていた相手が、微笑したまま何の追求せずに立っている。複数人との会話で、知見が足りない話題をだしてしまった場合は話をあまり広げずに畳むのが社交の場での暗黙の規律であり、高位としての格というものである。




