24 鮮血と花と、
どんなに貧しく、住民が少数しかいない集落であっても教会があり、その庇護のもと暮らしている。アクエレイルほどの大都市でも教会に庇護されていることに変わりはなく、国土を包括する大聖堂とは別に各教区に建つ教会は市民を保護し、祝福を与える存在として意識されていた。
イスル教区 ブロートン・ブリットン教会―――――
三角屋根の講堂と四角い天守塔を備えた教会に、木皿を持った人々が集まっていた。足首まで届く裾の長い貫頭衣を腰で緩く縛ったその格好から、農業や畜産などの肉体労働に従事していない層であることがうかがえる。肩を落とし、俯きながら、ただ静かに列をなし、教会の中に入っていく。雨の日の葬列のように。
教会から広場、そして目抜き通りまで伸びた貧困者の列によって、屋根付きの店舗の前は満足に買い物もできない状態だった。彼らの放つ臭いは強烈で、神水の節は風があまり吹かないことから辺りには物が腐ったような酸っぱい臭いが溜まった。商人たちは当然顔を顰めたが、大聖堂より発布されている「安全通行状」によって、陽の日だけは貧困者を優先させなくてはならなかった。教会に通じる道を白い外套を着た者達が警邏している。彼らの姿を見ると、身を隠し、店じまいする商人もいた。
灰色の襤褸切れで顔を隠した老人が教会の扉をくぐった。
その胸に皿を抱き、前室を怯えながら通っていく。周りばかりに気を取られていたので、前の猫背の青年が立ち止まっていることに気づかずぶつかりそうになった。避けようとして体幹を崩してしまった老人は、そばにあった長椅子に正面から倒れ込んだ。
咄嗟に手を突き出したせいで、手首が痛んだ。膝が座面に当たり、こちらにも痛みが走る。
「おい、あんた」後ろからかかった声に、関わるなと意味を込めて片手を何度も前後させる。膝の痛みを誤魔化しながら、列に戻ると「…んだよ、しっかり歩けよな」と言われるだけで済んだ。暴力を振るわれなかったことに安堵する。
講堂に入ると、正面の主祭壇を背に長机が一列並べられていた。揃いの服の修道女たちが大鍋の前に立ち、木皿を差し出す市民に食べ物を渡している。
イスル教区にはこんなにも人がいたのか。老人は足を止め左右を見渡した。
毎節通っていても改めて圧倒される。修道女たちもそうだ。また新しい顔が増えているような気がした。自分の物覚えが悪くなったのかも知れない。
人の波にもまれているだけで老人の息が上がった。列に横入りする者、横切る者、押されて舌打ちをされ、老人はひたすら肩を丸めながら背中に続く。
帰りたくてたまらなかったが、ねぐらにしている水路のそばに戻っても腹を満たすものなどないのだ。汚泥で濯ぎ、服で磨いた皿とて、水路を歩きまわり探し当てた。匙さえ持っていない。だから、節に一度、無償で配布される食事だけが老人の命だった。講堂はそういった者たちで埋め尽くされていた。
長い時間をかけて、老人の番が来た。修道女が笑顔で片手を出した。
「さぁお皿をこちらに」老人の目の前で穀物粥がたっぷりと注がれた。
口の中にたまった涎を飲み込む。皿を受け取るために差し出した両手はまだ空だ。修道女はもう一度大鍋に柄杓をひたし、粥をさらに追加した。編籠をもった女性が粥の上に牛の燻製を乗せて「おかわりにきてくださいね」と言った。
老人は口を尖らせた。不満など無い。あるわけがない。唇をむずむずと結び、水の膜を張った目を何度も瞬きながら皿を受け取った。
「……もらい泣きしてしまうわ」
「優しいわね。でも鍋に入ったら大変よ。ほら、涙をぬぐうわ。笑顔をみせて」
「ありがとうルクレチア……」
老人を見送った修道女は、きらきらした頬を笑みで膨らませ、次を呼んだ。
ガシャン――少し離れた場所で大きな音がした。修道女も列に並んだ市民も音の方を向く。大鍋の乗った机が下から突き上げられて揺れるのが見えた。ルクレチアは編籠を机に置いて駆け寄ろうとした。
次の瞬間、市民の中で擦れた叫び声をあげながら老婆が倒れた。皿がひっくり返り、粥が床に広がる。人の背に隠れ、うまく全貌が見えない。今度はさきほどよりも大きく机が揺れた。修道女の絶叫が弾けた。声に急いで駆け寄ると、床に転がる鍋と、粥を体にかぶって倒れている女がいた。
修道女たちはすぐに大鍋を遠ざけ、腹や脚に乗った粥を退かした。
「司祭さまを!」「服を、服を脱がせて!」「火傷が…!」「そちらの方は!?」「みなさん少し、ほんの少し後ろに下がって」女たちの声がどよめきの上を走る。
配膳は中断となったが、誰も講堂から出ようとも、列を乱そうともしなかった。皿を抱きしめたまま心配そうな目で見守る者、いつ配膳が再開されるか考えている者、隙を見て勝手に配膳を始めようとする者もいた。叫びが四方から聴こえ始めた。粥をかぶった修道女は体を硬直させながら、必死に唇をかみしめていた。半身を突き刺されるような痛みを逃がそうと、痛くない、痛くない、痛くない、痛くない、何度も念じる顔には汗が噴き出し、真っ赤になっていた。
「司祭さまは! 誰かもういちど呼びにいって!」
「お前がやったんだろ!! 逃げるな!」
側廊から怒鳴り声がした。声に気づいた者達の視線の先に、子供を掴み上げた男が出てくる。男は祭壇の方に向かう。人の波は関わりたくないというように男を避けて波打つ。上衣を掴まれ、首を絞められながらも暴れる少年を見て、誰かが吐き捨てた。――掃きだめのガキのやりそうなことだ。
「それなに」
火傷治療をする輪の手前、一人の修道女が男の前に立った。言葉遣いがらしくなかったが、修道女の証である緑の服を着ている。男は退けと吐き捨てるか迷い、飲み込む。背格好からして教会に入ったばかりなのだろう。その少女を教会側だとひとまず認識して、暴れる少年を見下ろした。
「これが机の下に隠れてるところを見た。婆さんの皿を取ろうとして失敗して、逃げようとして机を倒しやがった。こいつが元凶だ。おい、こっちは見てんだよ! 暴れるな! 逃げられると思ってんのかクズが!」
「離せよ! 離せ! 離せッ! クズはッ、てめえだ!!」
足を前後に振り、渾身の力を込めて男の腕を叩く。けれど男は少年の首を掴んだまま腕を前に出した。背の低い修道女は「わかった」と目で頷いた。
吊るされた豚のように――――仰け反っていた少年の口から「かひゅ」と空気が漏れた。遅れて鮮血がほとばしる。
セラは絶命を期待した。
豚の首に刃を差しこんだ時のように、肉を裂く感触を期待した。あの日父から任された役目を果たすことがセラにできることだった。
「決断には責任が伴う……君にその責任が取れるのかな、群盲者よ」
セラは虚をつかれ、パッと顔をあげた。男だ。亜麻色の髪の男が立っていた。男は手のひらで刃物を受け止めながら、平然とセラを見下ろしていた。
柄を握ったセラの拳と、男の手の間から血が滴って、はたと床を見た。血の花の咲く床、男の白い外套。りきんでさえいない指先が赤く染まっても、男はただセラを見下ろしていた。




