239 肉料理:----・------(31)
「そばで学ばせていただきたかった。残念だ」
大主教とのあれこれを思い出しているのだろう。しおらしい顔をしている執行官はクロード・ヴァンダールの悪影響を受けていることは明らかだった。
彼だけではなく、大広場を埋め尽くす市民も、大聖堂までの行進に連なる騎馬司祭、侍従、他の執行官、衛兵、修道女、そのほとんどが前大主教の影を見ている。
熱気とざわめきは、祝福の花と共に風に舞い、どこからともなく弄ばれた花弁が私の頬を撫でた。悠々と泳ぐ花弁を掴むと、自由でゆったりとしていた花は掌のくぼみに横たわり冷たくなっていた。傾けてると先程までの優雅な羽ばたきなど嘘のように、重く、石畳にまっすぐと落ちて死体となる。
傷のついていない花弁は、とても清潔で汚れもなかったが、踏みつけると水分と淡い影が滲み出てきて石畳に広がった。それを見ると物憂さが多少晴れるような気がした。
「閣下、全隊の準備が整いました。号令を戴きたく存じます」
「祭祀官、この後の流れをもう一度説明してくれないか」
「はい。大聖堂に移動後、理力奉奠の儀、聖歌奉納、献饌、最後に冠帯の儀でございます」
「そうか。民の多くは白い花を持っているようだがあれは? 君が胸に挿しているのも同じ花にみえる……見せてくれるか? 取らなくていい。そばに来てくれ」
沿道の娘たちが胸に抱く白い花に顔を寄せていた。よくみれば街道を挟んだ向かいの男達を盗み見ては、花よりも瑞々しく笑いあっている。男達は知り合いなのだろう、中には仲間に小突かれ、耳まで赤くしている者もいた。
「これはブルームという品種で、塩害にも強いため市内でもよく植栽されています。愛好していらっしゃった前大主教の為に、慶事の際に露店で販売されるようになりました。今では、若い男女の間で愛情を伝える際に、言葉と共にブルームを一輪贈る風潮が好まれているようです。この一輪は施療院の子供からもらいました」
「とても素敵な話だ。そうか、クロード様のお好きな花だったのか」
笑って答えると祭祀官は少し安堵した様子で「えぇ」と相槌を打つ。先程より血色の良くなった執行官が言葉を継いだ。
「茎に細い帯を結んで渡すのです。相手の瞳の色を模した帯が喜ばれていると聞いたことがあります。私は贈ったことはありませんが……いえ、すみません」
「瞳の色を。それは私も初めて聞きました。施療院の子らは、冠帯の儀で閣下が帯を戴くことにあやかっているのだと言っていましたよ」
「この街のものは心から大主教様を愛しているようだ」
「次は御身の番でございます」
祭祀官の言う通り、大主教には市民から無償の愛が捧げられる。どこを見ても笑顔を返され、すがる手を取れば、膝を折って涙する。彼らはみな私の物で、私は彼らの物と成る。
その事に一切の恐れはなかったが、自分という形を押しかためて、相手の思うままを演じてやらねばならぬ煩わしさはあった。私を理解する気のない者に囲まれることは楽だが、心を震わせる場、あるいは人を欲していた。
すると心に美しい湖沼がかすめた。心がうつした記憶であるにも関わらず、私の心は高鳴った。聖霊がほとりに佇んでいたからだ。
「……もしヴァンダールの舵取りを誤った時、誰が諫めてくれるのだろう。委員会、司教会、各部の主席も、献策する事はできても、決定を覆すことはできない。もし私が過ちを起こした時、君達は私を殺してくれるか」
「閣下……佳節にはそぐわないお言葉です」
「そうは思わない。これは私の命題であり、高位に立つ者として考えねばならない事だ。ヴァンダールという名を継いでも、まだ冠帯していない。私はまだ私であり、帯をまとうことで私ではなくなっていく。教えてくれ」
『私を殺してくれるか』
祭祀官は圧せられた心地になって目を細めたが、太陽が海に落ちるそのとき大主教となる男の中にどんな想いがあるのか、推察することはできなかった。その静かな瞳の中には脅迫めいたものも、挑戦も、敵意も感じられない。こういう目に出逢った時、自分もまた正面から答えなければならないと知っていた。ある種の妄執をもつ者がする目だった。人を見極めて、見限るかどうかを定める目だった。
危うい言葉を言ってはならぬと頭の中で声がする。口腔で乾いた言葉を何度も練るうちに、隣の男が答えた。
「いつか、今ではない遠い日。貴方様が長年に渡って暮らしてきたこの街を、おそろしく利己的に、絶望的なまでに貶めて、窮状を笑うようなら、ともに暮らした一番古い友として私達は貴方様を止めるでしょう」
不思議なもので自分の役目を捉えた男は別人のように立っていた。思慕の風習を気恥ずかしそうに伝えた若さはなく、無量の一本の樹のように立っていた。そこに恐れも、気負いもなかった。
「……聞きたかった言葉だ。サロマ」
言葉が心の奥まで響き渡ったというように、吐息の混じる声で男は答えた。
(これは儀式だ。彼にとって儀式なのだ)
眼前で、大主教となる男に最後の愛が捧げられたのだと祭祀官は感じ取っていた。ディアリス・ヴァンダールの脳裏には都市も人も己の玩具にしても良いのだと、そう思って心底笑っているのだとは考えもしなかった。
一日で最も美しい微笑が浮かんでいた。彼らも、民衆も、街さえも笑っている。
「さて、大主教になってこようか」
海上に浮かぶ大聖堂がくだくだしく鐘を鳴らしていた。豪奢な衣を引きずる背はおそらくもう振り返らない。祭祀官と執行官は揃って頭を下げた。
太陽となる男を乗せた馬車が動き出すとヴァンダールという都市が堅固にその身を震わせたように思えた。賑わう大路の奥、血管のように広がった小路の先から男を飲み込まんとする笑い声が聴こえるような気がした。
ー




