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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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238 肉料理:----・------(30)

その日から、「過ち」という言葉が刻み込まれた。それは白紙に落とした墨のように明白に私を汚した。老身に挑み、顔を歪めた私はすぐに笑みを張り付けた。

辞去を告げて、何か言われる前に背を向ける。彼が振り向いたかはわからない。きっと私が訪ねてきたことも存在を消され、なかったことにされるのだろう。こなければ良かったなどと意味のない事を考える。

今すぐにこの陰気な家から出なければならない。


召使いの手が伸びぬうちに外套を引っ手繰る。すると深々と頭を下げた老婆が、扉に手をかける私にこう投げかけた。


「お目に掛かれて嬉しゅうございました」


木板がしなる音が静寂を裂き、私を振り向かせるに足りた。ひたすらに腰を屈め、感に堪えないと全身で告げる女の足元に雫が落ちた。涙だと直ぐに理解したが、理由は思いつかない。どうして落涙する必要がある。小さな嗚咽が漏れて、私は押し付けられたものの生々しさに、思いがけず固まった。一瞬で全身が冷え切り、一語も発することができなかった。しかし、徐々に烈火のごとく燃えさかるのを感じた。女が何を答えるのか、それが問題だった。


「誰が」と吐き捨てると「クロード閣下でございます」と白髪頭が答えた。

結んだ髪の一本一本は細く衰え、赤い頭皮が見えていた。


「誰に」

「貴方様でございます」

「そうおっしゃられたか」


老婆は答えなかった。

全身に衝動がめぐる。陰気な家で陰湿な病人を世話する女に似合いの押しつけがましさだった。曲がった背ごと布でくるみ帯を結んだだけの女の残骸が、立場も弁えず関わってくるのか理解できなかった。主の心を読んで動いたのであれば忠義であろうと愛情であろうとここで殺さねばならない。召使いのする事ではないからだ。


或いは、扉の向こうで空疎な庭を眺める男が、女の口を借り上げているなら、それもまたこの上ない屈辱であった。あの男は私の何を嗅ぎつけたというのか。私を指名した理由も吐かず、ただ一言のみを投げかけて終わった。私は岩に噛みつくような気持ちだった。女の不要な言葉もそうだ。老いた主従は私を心から追い出して、自分の中に耽っている。言うまでもなく不快だった。喉が絞られて、息が吸えなくなる。怒りがせり上がって私の喉を塞いでいた。


私は咄嗟に棚上に飾られた杯を掴み、ありたけの力で叩きつけた。

廊下の奥、食卓に起立する燭台に当たり、銅製の台座が床を打つ鈍い音と、陶器が割れる高い音が連続して響いた。

老女は、わっと駆け出すと「申し訳ありません!」と叫んだ。何度も頭を下げて必死に謝罪しているが、その体は私ではなく別室で臥せる男の方を向いていた。


私の口は破滅的な術を詠唱していた。家具が浮き上がり、空気に圧迫されて粉砕されていく。老婆は異音に振り返り、慄きながら二歩だけ歩き、目を奪われながら止まった。


「……何だ。(めし)いていると思ったが、見えているのか」

「何をなさっておいでです…!」


割れるような声で叫び出した。判別できない音の羅列が私の体にぶつかるが、煩わしさも心地良い。私を踏みにじった女にゆっくりと微笑んで見せる。


「男同士に割って入ることは許されない。墓石の下で思い出すといい」


屋敷全体が轟いていた。塵芥の雨が止むと、私の周りだけ円座になるように残骸が山になっていた。椅子の脚、鏡台、書棚、花瓶、生花、―――一つ一つを愛でる私に金色の光が返事をした。木片を持ち上げると、金色の装飾品が自身を証明するために美しく煌めいていた。半壊した化粧箱から滑り落ちた首飾りを指に掛けて持ち上げると、持った拍子に蓋が開いた。

項垂れていた老婆が金属音に目敏く気づき、すぐに顔をあげた。誰の所有物であるかは表情から知れた。


二枚貝を模した首飾りの内側には、羊皮紙が縫いこまれていた。端が焦げて煤が付いている。随分前に燃焼したことは輪郭から見て取れる。燃えた巻紙から一部分だけを切り取って、縫いつけているのだろう。

中央に描かれていたのは、首だけで振り返る少年の姿だった。線はぼやけて、顔の殆どは既になかったが丸い顎が細い首筋に乗っている。他者に分け与えるような慈しみが唇に残り、視線の先にいるであろう愛する者を見ている。見えはせずとも、そう感じられた。


「ハッ!」


肺から鋭く生じた笑い声は、老婆の「お戻し下さい」という連呼にさえ掻き消されなかった。

空疎な庭を見つめることしかできない男は、結局は私と同類だったという事だ。


滅びよ(テネブロ)……」


握りしめた手の中で、金属がひしゃげる音がした。





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