表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

237/446

237 肉料理:----・------(29)

「何とおっしゃいました?」


片足を馬車に掛け、扉内側の取っ手に片手を掛けている。護衛役の次席執行官は、私が何の問題もなく儀礼馬車に乗りこむだろうと後方に目を向けていたので、突然立ち止まって笑い出した私に急いで駆け寄ってきた。近寄る足音に戸惑いが表れている。


「そうか、ふふ。いや、すまない。何でもないんだ。少し思い出しただけで。気を悪くしないでくれると有難い」

「……閣下」

「ふふ……少し話をしてくれないか。頬に笑顔を残したままでは締まらない。君は結婚をしている?」

「は、いえ。いいえ、しておりません」

「執行官になって長いのか」

「はい。知恵はさっぱりありませんが、理力だけはありましたので。財務部にいた頃に知友が推薦してくれました」

「何かをやり通すには能力が必要だが、その才があると友は見抜いていたのだな」


硬い顔に一寸の朱が乗る。自分が褒められるより友への称賛が嬉しいのだろう。


「前大主教の警護にも就いていたと聞いている。君から見たあの方はどのような人だったのか教えてくれないか」

「……それは、私が語るには畏れ多くありますので」

「サロマ執行官、今日のような好晴(こうせい)は物事の始まりに相応しいが、一つの代の結びと思うと無性に悲しくはならないか? この青に色々なものが要約されている気がする」

「……青に……とても難しいことをおっしゃいます」

「クロード・ヴァンダール様と最後に話したのもこのような、飲み込まれそうなほど高い空だった」


前大主教の名前に男の全身が引き締まった。本能的に、体がそうなったのだろう。

私は不熟へ向ける侮蔑の笑みを誤魔化して、視線を空に戻した。思えば大聖堂に移ってからというもの、こういった視線や表情に出逢うことが多くあったが、その度に嫌悪を感じていた。


「次期大主教に指名されたあと、私は病床に臥すあの方に謁見を申し込んだ。高位職の方々ではなく何故私を指名されたのか、真意を問わねば請けることができなかった。本来、万難排して臨むと早々に言うものだとはわかっていたが、大主教の座など私には扱いかねる。結局彼を目の前にしてもまだ拝辞する気でいた。人は私の事を疫病を退け、街を救ったというがそうではない。発病を厭わずに治療に奔走したことが模範だと褒められるが、決してそうではない。死んでも良かったんだ。自分のことなどどうでもよかった。だから無謀な事などいくらでも出来た」


あれほど無力と、命の軽さを感じた日々はなかった。肉体は腐り、惨たらしい症状が重なって現れ、人の形を凌辱し尽くしていく。覚醒していられるのは初めだけで、悪魔に打ち勝てず、最後には誰もが死を乞う。


「救えなかった命の方が多い」


―――殺した命も数え切れない


「……今、貴方を呼ぶ者達はみな、救われております」


実直だな、と彼の顔を見ながら思った。

花束のような喧騒の中に「大主教様!」「ヴァンダール様!」と呼び声が聴こえる。民衆の声を背負い、私に真摯に向き合おうとする青い心持は、まるで風を受けて進む船のように美しい。

だが、そのような心は関係がなかった。絶えず私に降りかかる歓声も彼の実直な視線も、私に与えられたものではないからだ。大主教という呼び声を聴く私の心はいつもどこか別の所にいた。このような祝福さえ遠く、木々をざわめかせる風だけが聴こえる場所にいる。軒下に腰かけ、ゆっくりと落ち葉が散り敷かれる庭を眺めている。

女が一人で黙々と落ち葉を掃く、寒々しい、私だけの場所。


(………私は死人なのだ)


瞼を閉じると、映し取った空が暗闇に愛撫され融けていく。首をいっぱいに反らしていくと、倒れそうだと思ったのか執行官が背を支えた。五つ重ねの祭服が肌に触れ、職位の重みを過剰に伝える。


「あの方は答えてくれなかったよ。私を選んだ理由も、大主教という職位がどのようなものかも。ただ、細い息を吐きながら、"過ち"を積み上げなさいとおっしゃった」

「過ち……?」

「難しいだろう。ありがとう、離していい」


過ちを積み上げなさい―――

それだけ言って、彼は私のことを人生から追い出した。

病床にありながら上体を起こし、背筋を伸ばして客人を出迎えた姿には圧倒された。窓の向こうの質素な庭と木漏れ日を眺める男はまだ"大主教"の座を降りていないように感じられた。この泰然さは私にはないものだ。


庭には小さな池があり、今日のような清らな青空を映していた。その時ふと私の脳裏に、男を乱したいという欲求が膨れ上がった。破壊衝動といえば近い。あの静止した池に花瓶を投げ込めば、彼は顔を歪めて酷い言葉を浴びせてくれるだろうか。花瓶を掴み、花が窓辺に散り果てるところまで想像したが、想像の中でさえ肝心の彼は微動だにしなかった。ただ静かに私の暴挙を眺めていた。私と云う形がどのように変転しても興味などなく、廊下に控えている召使いを呼ぶためだけに呼び鈴を鳴らした。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ