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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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233 肉料理:----・------(25)

秘書官の両腕を掴み、間近で顔を覗き込む。然しもの彼も目を見開いて私の様子を窺った。会話も空気も押しのけて隅々まで情感の壁を押しつける私に、逃げることなく凝視し返した清い男は「……閣下」と優しく私の腕を叩いた。「閣下……どうなさいました」


私は何も言わなかった。言うべき言葉がなかったのではなく、口を閉ざしていた。所帯を持たず教務に身を捧げる男の顔の向こう、その奥に幽遠を追い求めた。その幽遠はあたかも命があるかのように活き活きと私を見たのだ。ならば「呼んでいる」ということだ。"彼女"が私を呼んでいるのだ。魂が引き合う力がもしもあれば、青い瞳の奥底で私を見つめ返す「彼女」を引き上げることができるかも知れない。それだけを考えていた。


その間も彼は優しく私を気遣う言葉をかけ続けた。出逢ったのは前節の終わり頃だったが、私が大聖堂に移ってから大主教付き秘書官として教務の補佐をしてくれている。今を生きているという事は疫病の惨禍を生き抜いたという事であり、その時代を駆けた者特有の泰然自若とした気品が全身から滲んでいた。


彼と私はすぐ友になり、私は彼を弟のように感じていた。傍らに立つと頭一つ分低い背と、切れ長の青い目をしている。彼は私をいつも尊重してくれた。言葉にして表すことは無いが、それが伝わってくることが言葉にされるよりも嬉しかった。先程も子供たちと遊ぶ時間を捻出してくれたのも彼だ。私が大聖堂で暮らし、大主教就任までの怒涛の期間を昨日も今日も明日もやっていけるのは、彼がいてくれるからこそだった。そう、わかっている。

だからこそ、いま、彼の落ち着いた青い目にゆっくりと苦しさが広がっていくのも私にはよく分かっていた。それを強いているのは私だということも。


(―――幻だったのかも知れない。錯覚だったのかも知れない……けれど)


このままでは釣り合いは崩れ、信頼を裏切ってしまう。少なくとも行動の理由を説明しなくてはならない。それでも私は彼の身体の奥に隠されているものにまだすがりつきたかった。()()()()()()()()()()()()()()。そういう思いが私の中を埋め尽くした。


頑なに応じない私に、彼は歌を口ずさんだ。馴染みの祈りの一節だ。誰かを呼びこめば、数日後に大主教の座につく私の心証を悪くしてしまうと危惧してくれているのだろう。とても小さな声で、耳を澄まさねば聴こえないようなものだったが、私と彼の間には心の中を吹き通る風さえもなかったから、舌のもつれまで微細に感じ取ることができた。


祈りの終わりには私は正気に戻っていた。手を緩めると、私の態度はあいまいにも関わらず彼の顔には安堵が浮かんだ。耳の奥でたぎる鼓動が一息に遠のく。秘書官は私を柱の陰に軽く押し込むと、長椅子に腰かけるように言った。


「閣下。今日の予定はすべて中止しましょう。直ぐに治癒師と占術師を呼んでまいります」


俯く私の額を指がすべり、ざらりとした感触があった。土埃を含んだ汗を清めようとする手を払い、すかさず首を振る。大丈夫と繰り返した。心はまるで絞った手拭いのように締め付けられて、強引に均されているようだった。


「……すまない。少し、……すまない」


――――君の顔が、別の顔に見えたのだとは言えなかった。


放心しているとしばしば見せ掛け、執拗に記憶をたぐり寄せて抱きしめる。あの時硝子に反射していた秘書官の顔に白光が集まり、女の顔に変わるのを見た。痩せた男の顔に、痩せた女の顔が張り付くのを確かに見た。帯を直す手や、衣を忙しなく追う目線が一瞬だけ絡み合い、"彼女"はすぐに俯いてしまった。気恥ずかしさに照れてしまう癖が、どれほどまでの酩酊感を与えるかお前に教えてやりたかった。


「閣下…ですがやはり」

「問題ない。行こう。心配しなくていい。これ以上遅らせるわけにはいかない。決裁しなければならない事が山ほどあるのだろう」

「……いけません」


同じ言葉を口腔でもう一度呟くのが見えた。理解し難いものを前にして感じる恐怖や気色悪さを凌駕して、私を真っ直ぐにみようとするやさしさに私は思わず心の中で正気を問いかけた。微笑を浮かべながら、強く握りしめてしまった腕をさする。


「忙しさから追い込まれている事は自覚している。多くの市民が亡くなり、教会も半数以上が空席だ。私はその穴埋めに過ぎず、"疫病"を盾にのし上がったのだという声もある。既に指名はされ、柱であらせられた前大主教は身罷られた。これから私の周りは、思惑通り動かそうとするものや、真っ向から対立を望むもので埋め尽くされるだろう。評議会は中立だ。いかに私が市民から望まれ、好意的に見られていても、敏捷的確な統御を行えなければ彼らもまた離れていくだろう。だから今は無理をしたいんだ。私には君がいる。()がそばにいてくれれば一切上手くいくと信じている」






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