231 肉料理:----・------(23)
狂気というほかに表現しようがない。
例えば彼が、どれほど縁遠い体験からも具体的に描写できるとしたら、自分の体験に当てはめて語っているに過ぎず、詐欺師や、芸術家の空想と同等である。
私は誰の作品でもない。お前の中の、ある概念で定まった言葉を並べても、私の言葉は私の中に封じ込められている「世界」から滲み出た血潮なのだ。それを主面としても側面としても引きだして表現する事ができるのは、私にだけ許された自己表現なのだ。
教会に救いを求めにやってくる信徒に、行動や顔の表情から先んじて情報を集め、いかにも万能に本人以外知り得ない精神を共有しても、所詮はあらかじめ描かれた線をなぞったに過ぎない。
だから私が語った悲劇の一片では、私の生涯を見通すことなどできない。
しかし同時に、私の中で一つの疑問が出発した。
彼の叫びは、これまでの私自身に起きたあらゆる経験に置き換えると、すべて符合するのだ。彼の中にある私は、"私の知っている私"だった。
彼はどのように私を模倣したのだろうか。人と人は根本的に相違している。それが個人の領域を保証するものであり、心を守護する最後の不変の砦なのだ。
『………―――何を、"拾った"』
『お前だ』
――――――――刹那の沈黙の中に、様々な考察が呼び起こされた。
(彼は私を見抜いている……、私は私でしかないが、彼は私だ)
私の頭は先回りをして、悲痛な自分を出迎える準備をした。私は私を信じていたので、例え私の認知が常人から欠け離れていたとしても、それが他者に何もかも暴露されてしまっても、私は私を守っていかねばならなかった。
怖ろしくてたまらなくなって、私は私の首を両手で掴んだ。命を掴んでいなければ、弾けてしまいそうだったからだ。薄い肌に覆われたその下の魂を掴んでいなければ、私は大きく開けた口から私を嘔吐してしまいそうだった。
「どうしてこんな仕打ちをする…? 私が何をした……なんの関係もない、私達は……何もない……なあ」
聖霊は、氷のような冷たい顔で私を見ていたが、錯乱する姿をみて心底どうでもいいというように目を逸らした。星空の左辺から漂う雲を見上げて、空間的に私を隔絶しようとする。我慢ならず、男の肩を掴んだ。その顔を振りむかせて、何がしたいというわけではない。ただそうしなければならなかった。
しかし男は青白い頬を向けたまま私の醜さを見ようともしない。
耳元で羽音が聴こえたと思うと、腕に甲虫が張り付いた。光沢のある背が真ん中で二つに割れ、隙間から薄羽が収めきれずに飛び出ている。するべき事をまともにできないさまを見ると、猛烈な苛立ちが私の胸を塗り潰した。見た事もない乱暴さで虫を投げ払うと、また叫んだ。
「答えろ!」
ぽつり――黒々と引き締まる地面の上に雫が落ちる。一点を皮切りにとめどなく降ってくる雨は、世のすべてを食いつくすように更に深い黒に染め上げる。
「そうまでして私を辱める……なぜ」振り絞って言う私に、聖霊は雷光がよぎる空をますます仰いだ。暗雲が何もかもを覆い隠し、最早天には私をやさしく見逃してくれる星はいなかった。
「救われる道がないからだ……もしお前が救われたいと思っているなら」
「……覚悟があるかと聞いた。私がどうするかなど、事もないと言った……嘘ではないか。お前も嘘をつくのだ。死なせてくれ………死なせてくれ…!」
「己にこそ問え……わかっているのだろう。本心では別事を考えていると……」
「……"ほんとうのこと"を言って何になるのだ……? 外に出すべきではない私の心を、曝け出してなんになる……?」
「責任を持つことができる」
「……責任?」
「生きることだ」
「……」
いたずらに複雑に膠着していたものが頂点に達した。私達はこれ以上どうにもならなかった。聖霊は瞼を閉じて、赤らむ空の一角に向けて熱い息を吐いた。水底に沈んだ棺の中、漂う二人を思い浮かべる。
(何者にも蝕まれぬうちに旅立て……せめてもの手向けだ)
ゆるやかに生まれた理力光が指先をめぐり、湖沼の水面を飛翔していく。
雨は私に集積しているように思われた。髪が濡れて束となって張り付いている。何もかも億劫で、疲労し、なによりも自分が禍々しく思えた。ひどく俯いている男は足元で動かない。人の心の中で散々喚いていた男も静かになった。しかしやがて目覚め、一切苦痛と無縁の願望を叫ぶのだろう。そのとき、自分の心が耐えきれるのかわからなかった。
「…………疲れた」
ただ確かめるように呟いた。それは男にも自分にも向けた言葉だった。
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