230 肉料理:----・------(22)
思いがけない言葉で掻き回されて、沈黙を選んでも苦ばかりだった。冷たい言葉の数々が冷え切っていればよかったのだ。そうすれば、受けつけずに聞き流してしまえた。けれど、聖霊はねばり強く、執拗に私を追いつめる。親指の先でぐっと頬を押さえつけられ、もう片手では自身の首を掴んでいる。私は顔を背けることも叶わない。懇願する瞳とかち合う。
(―――何という熱だろう)
不躾で、横柄で、何度も私を否定するこの瞳は決して私を遠ざけなかった。その意味を探ろうとする心に、重味がのしかかる。先程まで全知を統べていた男が今はどうして無力に見えるのだろう。けれど少なくとも、少なくとも私は濾過されていない生の情感に相対した時、どうすればいいか知っていた―――交わらない会話、肉体の強要、相手の望むままの形に自らの心を変容させることで共生するのだ。
湖畔の木々が水鳥の糞で弱り、枯れていくように。落ち葉が堆肥となって腐敗し、また次の生を支えるように。
(そうだ、枯葉がなければ妻は何を掃くというのだ……)
彼女は悔悟した罪人のように頸を折り、私を待っている。私はあの庭に帰らねばならない。その"役割"は奪わせてなるものか。
(――――――この男に抱かれればいいか、それとも……)
この男はどちらを好むだろう。まま訊ねてしまえば機嫌を崩すかもわからなかった。
ふと男の首筋に目をやると、赤い筋が浮き上がっていた。白い肌にあかあかと走る傷は私の目をくぎ付けにし、思考を中断させた。喉を掻きむしった時に生じた傷に汗が滴る。細い首を微動させるのは食いしばった歯の戦慄きだ。彼の肉体に在るすべては、私に向けられているものだった。
蝋の火を前に向かい合う私達は、温かい火色に炙られて肌や衣の境を溶かしていた。そのとき私は自分と相手を細やかに見つめ返した。思い至ったのだ。
このまま満遍なく燃やせば、同じ色になるのではないか、と。私の頭の中には、絡み合いながら危うい均衡を保つ屍体が刹那見えた。生命活動を停止させて昇華された命は、「死」の最上位のものであるように思えた。最早、私を糾弾する美しい男は敵ではなくなり、彼もまた自分のことばかり考えている卑屈な男に見えた。
(例え私に幸福になる権利がなくとも、この男に不幸をつきつけられる権利もないのだ。そうだ、そうに決まっている)
その閃きが寄る辺なき心の拠り所となった。互いの唾液はねばって飢えていたが、私は悪意を含んだ舌に唾液を絡ませ、もう一度口を開いた。
「………今一度言う。私は死にたい。認められずともよい。納得せずともよい。私は、私の結着をつける」
「ならば己に問うがいい。本当に死にたいか」
「無論」
何故ならば、"私"は私、一己のものだからだ。
できるだけ冷たい声で返事をしたが、聖霊は首を何度も振った。「聴こえる。お前の叫びが、ここで……」顔を挟む手が震えながら離れていく。彼はろくに私を見ずに、胸元をたぐり寄せて項垂れてしまった。床板にすがった指先が、木目に爪を立てる。と思えば、「入ってくるな!」彼は突然顔を上げた。部屋が震え、木戸がかたかたと鳴り始めた。
「堪えん。何ぞ考えたくもない。有耶無耶にしたい。死から逃れたくてたまらない! 頭の中に残る美しい女が、私の手を引いてくれる。私だけを待ち、私の為に生きて、これからも良いように啼き、何もかも肯う。もう私だけの女だ! うるさい! うるさい!! うるさい!!!」
襟元深くに差す細い首を精一杯掴み、それを己自身で締めつけながら、彼は恥じ入るような言葉を絞り出した。心の全てをなんとかして伝えたいという焦りが、自らの手で呼吸を痛めつける行為に変わる。
先程までの人格と異なった奇怪な姿に、男の薄気味悪さが際立つ。
「…………なにを、なんのつもりだ」
「…………似合いの願いだな………こんなものを押しつける……」
「こんな…?」
「喋るな!」
「……」
「光を宛てなければ決して明かされぬ脳裡を……こんなものが宿命というものか…………余は……こんなものの為に……ふふ、何もかも肯う女が欲しいか。伝播した身で、これ程の吐き気を覚えたことはない……何を呆けている。捨てておしまいになどならない」
「………―――何を、"拾った"」
「お前だ」




