229 肉料理:----・------(21)
胸倉を掴み、憐憫とも激情ともいえぬ間を彷徨う男の顔に、父親の表情が張り付いた。水辺で見上げた幽遠な趣は消え失せ、代わりに私を傷つけようという支配的な思いが、聖霊の格好をした父の全身から放射される。緊張が足元からよじ上がってくる気配がした。
彼らを前にすると、私は四角い窓辺の前に立ち、外側から命じられるままになる。様々な種類の声を聴く私の眼は明滅し、最後は窓の閉まる音とともに暗闇に包まれる。あかりの消えた部屋で、息遣いが間近に聴こえる。思い出すまいと用心してきた私の心持など構わずに、しきりに湧き出て止まらなかった。それは私の「死」に外ならなかった。
(やはり"お前"も、お前も私を思い通りに教育しようというのだな)
叫び出したかった。しかし先に「見ろ!」という鮮烈な叫びが私の思考を突き破った。目の前に映ったのは、自分自身を叱責する哀しみに満ちた顔だった。
(なぜ私より傷ついたような顔をする――)
頭頂部までのぼった血が一気に引いていく。勢いのままに後ろに倒れそうになる私を何かが支え、前からは男がへばりついて、宝玉のような目で見つめてくる。
私の心は、暗闇を照らす蝋燭の灯りを捉えていた。淡い光はほのかに揺らめき、狭小な場所だけを浮かび上がらせる。私と聖霊。この世に生まれ出でてから合わさることのなかった者達が、小さな私の「世界」で向かい合った。空っぽの籠のような世界で。
「お前が死ねば女子供の死につり合いが取れるとでも思うているのか…!」
「ち、違う……ちがう、そうではない」
「そうでないなら何だというのだ。罪悪を持っていても口に出してそうは言えぬもの。されど、死ぬと決めた男が何を憚ることがある。その心を真に死にさし向けるというなら、己の都合など言い訳に過ぎぬ。嘆き、遠ざけて、悲しむふりをして心安くなりたいだけなのだ」
「違う…! 違う…!! 知ってどうするというのだ……これは私の死だ。私の意思があればいい。難しく突き詰める話ではない」
「女に憐れのままでいて欲しいのだな。だから習わしを破る片棒を担がせて沈めたのだ。そうだ、これは難しい話などではない。何のために死ぬのか。命を断絶し、滅する理由を訊いている! 見よ!」
聖霊が手を振りかざすと、突き出し窓が開き、四角く切り取られた庭が浮かび上がった。
部屋の中は暗いのに、庭だけは日光を集めたように白く、窓枠に切り取られ、とても幸福な構図として私に沁みこむ。眩しさに目を細めると、真ん中にただ一人の女が佇んでいるのが見えた。汚れの滲んだ薄い衣、箒を手に、散り敷かれた枯葉を無心に掃いている女の姿がある。
私は咄嗟に妻の名前を呼んだ。窓に身を乗り出して叫んだ。在りし日の妻がそこにいる。叫び声に反応し、彼女は顔を上げて、細い手をほんの少しだけ上げた。可憐な花のように俯き、まともに手も触れない至らなさを詫びながら、手櫛で髪を整える。きっとはにかんでいるのだと私にはわかった。それはまさしく、愛しい男を出迎える女だった。どうして今の今まで気づかなかったのだろう。
彼女は私の前で、"女"であった。私の為の"女"であった。
私は彼女にもう一度声を掛けた。しかし彼女は私を視界からしりぞけ、横を向いた。別の男が近づく。妻は知らない男が近づくことに何ら疑念を抱いていないようだった。苛立った。目を凝らして男を見れば、とても"私"に似ていた。"私"は、すこぶる健康な妻の体を抱き寄せ、妻もまた少し胸を押し返すような甘い抵抗をしてみせ、そのまま二人はぴったりと一つになった。うわ言であろう。錯覚であろう。あろうが、悲しいほどに美しい光景だった。
耳元で男が囁いた。
「それがお前の理想か………」
「ひッ」
尻もちをついて倒れる私の前で、窓は蓋をされ、拒むように頑なに閉じられた。強風がまた部屋を揺るがして、がたがたと私の世界が震えあがった。
「………女は自ら命を絶ったわけでもない。お前が手ずから殺したわけでもない。棺は自ら水底に沈んだのではない。隠れ月の儀式の意義、連綿と続く習わしの意義、人が人を想い、人が人を戒める、すべて意思から生じた行為なのだ。だのに、お前には意思がない。女を追いやった責任から逃れるために、死という身体的行為で以て、女と自分を結びたいだけなのだ」
「………わ、……わた、し、は……どうして、お前がここにいる? ここは私の」
―――私と彼女の庭なのに
「意思に報いるのは意思のほかにない。成就するもののない行為を捧げて……、「死」だけを捧げてどうなるというのだ……お前は考えておらん……それがどれほど空しいか知らんのだ…………」
「…………」
「そうだ。お前はその程度の男だ」




