225 肉料理:----・------(17)
飛びかかってきたのを目の端で捉えながら理術を放つと、すかさず私の体をなぎ倒そうとする手に頭から滑り込んだ。股の下をくぐり抜けて背面を取るが、滑空してきたヴィヴラスが続けて凛とした咆哮を吐いた。振り返った時には鉤爪が私を囲う檻のように眼前で広がっていた。避けねば背後にはグリーズが直ちに振り返っている。鉤爪を避けたとして、そのあとは――
そのとき、視界の端から真っ白い狼が飛びかかった。首に噛みつかれ、ヴィヴラスの肉髯がぶるりと揺れる。地面に叩きつけられた鳥獣は翼を乱して空に戻ろうと試みるが、狼の両脚がそれを拒む。
汚れひとつない白い狼は、鳥獣の首を平然と食い破った。血と臓腑が散る。それでもなお、暗闇の中でその獣だけが白をまとっている。美しかった。巨体を容易くねじ伏せて、痙攣する四肢を押さえつける、その強さに魅了される。茂みに転がったまま呆けていると、鼻面に皺を寄せて唸られた。気を抜くなといっているようだった。グリーズは"食事"に紛れ込んできた相手を警戒し、距離を取っている。白狼が牙をむく。仕切り直しの咆哮が夜の森に木魂した。
辺りが静まると、私は急いで棺の元まで走った。黒布で覆われた箱は縄がついたまま、少しも変わらずそこに在った。私はへたり込んだ。体から力が抜けていく。
しばらく時が経つのも忘れて放心した。実際はほんの少しの時間だったかも知れない。地面にぼんやりと落としていた視線に焦点を合わせると、長靴の底が剥離していることに気がついた。側面と底面を縫い合わせた皮革がほつれて、前半分だけがつながっている。大きく開いた踵から入り込んだ泥が足裏にべっとりついているが、それがかえって接着の役目を果たしていたらしい。どうりで脚が重かったわけだと笑うと、咳き込んでしまった。興奮を落ち着かせるために背を丸めて呼吸をしていると、夜陰に横たわる死体の群れを横切って、男が私の前で立ち止まった。
正直に言えば、憎まれ口をきかれるのだと身構えていたのだ。先に白狼の事を話せば、あの賢く気高い獣は私の目の届かない背後や、ヴィヴラスの不意打ちなどをすかさず処理し、私の足りない部分を常に補ってくれていた。茂みから跳躍したと思えば牙で相手に食らいつき、打撃をするりと躱して枝から枝に飛び移り、相手を翻弄し続けた。私の脚と体力、また足場の状況から攻撃を躱し続けることはできなかったが、狼が身をさらして注意を引いてくれたおかげで獣たちは距離を取らざるを得なくなったのだ。終始そんな立ち回りをされて、すっかり心が奪われてしまった。
うってかわって、人の姿かたちが備わった聖霊は、最低限の働きしかしなかった。
まず枝葉の高さに大きく浮かぶと、私の奮闘をああでもないこうでもないと批評し、私が言うように動かなければ子供に言い聞かせるように手を叩いてたしなめ、言うように動けば意外と気持ちよく褒めた。鳥の囀りも多ければ喧しく感じるもの。男のまとう豪奢な趣きや、高位者の持つ威圧などをすっかり忘れ、半分も過ぎると私は男に怒声を返すようになっていた。(白狼が作ってくれた貴重な時間を罵倒に費やしたと思うと心が痛い)
しかし男が適宜放った理術により幾度も助けられたことも確かだ。私が望む形ではないにしろ、男は男なりに私を助けてくれた。棺を覆う保護術を掛け直してくれた事もわかっている。私の理力量では複数の術の常時発動は難しく、効力を失う前に重ね掛けする必要があった。彼の使う理術の光は多彩で、立ち振る舞いに似合う優艶さがある。詠唱をしないため発動の瞬間がわからず、連携が取りにくいと最中に恩知らずな悪口をいう私に彼は上機嫌に笑っていた。今も私を見る嬉しそうな顔に睨み返してしまうが、すぐに止めた。代わりに言うべきことを言う。
「ありがとう」
男はかすかに笑って頷いた。「まだ早い」
光が弾けた。視界いっぱいに溢れた光を片手で遮ると、しかめた顔の前に夜空が映った。美しい星たちの煌めきが、木々の間にぽっかりとできた空地に広がっている。地面に広がる夜空に私はしばし呆気にとられた。そばに棺があり、足元は草木の茂る湿地に変わっていた。私はようやく森の奥にある渥地に足を踏み入れたことに気づいた。夜空を映し取る美しい湖が広がっている。私は男を見上げた。
「棺に胡坐をかかれて、さぞ憎らしかったことだろう。非礼を詫びる。すまなかった」
雲は払われ、風もなかった。静寂をわざわざ作り上げてくれたのだと感じた。男は決して口にしないが、なぜかそう思えた。
疲労と虚脱から、私は数度首を振っただけで何も言わなかった。棺の横に狼が伏せっていた。彼はただ私と棺を交互に見て、耳を伏せた。
鋲を打った棺は、もう二度と開ける事は叶わない。湖というには小さな沼は、静止して私を待っている。




