222 肉料理:----・------(14)
供も連れずに独り身で、艶美な聖霊は枝に腰かけ、固まる私を見て楽しんでいる。
私は危機を回避する方法を巡らせた。争いは避けたく、本当に私の魂をすするというなら少なくともそばに近寄ってくるだろうと予測した。若いなりに体力と活力は持ち合わせている自負はある。
詰問の代わりに木から降りてきた聖霊は髪を掬いあげて、ゆるりと首を傾げた。私の目を探る顔は稚児をあやす微笑みにも情婦の笑みにも見える。地面に引きずる裾は、引き倒される筈の草生を何の痕跡も残さずに通り過ぎた。
(……ひとではない)
視線を戻せば、声をのんだ。私の目の前に痩せた顔があった。
身をかわす暇もなく、短剣を抜こうとした手と、詠唱をしようとした口の両方が抑えられる。体重を掛けられ、前から抱きついてきた男ともども倒れ込んだ。背中を木板にしたたか打ちつけ、喉から空気が吐き出される。足元にあった箱が私の進退をくいとめたのだ。小路を引きずってきた頑丈な木箱―――黒い棺は二人分の重みを乗せて、物言わぬ寝台と相成った。
冷たい空気の中に不敵な笑みが放たれる。
「そのままでおれ。そこな短小で切ろうが突こうが、余は一向に構わぬが、命は取れんぞ」
言いながら男の頬骨が、首と肩のあいだの窪みを擦った。首を取られている畏怖が私の体を強張らせた。肩を掴み、腰を抑える肢体には直接伝わっているだろう。すんと鼻を鳴らしてから、かすかに顔を上げる。魂をすするにしてはいぶかしい。
「臭う。血の臭いが、箱の中からも、お前のここにもこびりついておる。小童があちらこちらと箱を引いてふらつくのを、どれほどの目が見ているか。獣など生まれついての殺生好きよ。お前など、」
終わりを待たず、私は聖霊の横腹を殴りかかった。いやに軽い体を横に押し出し、ぱっと立ち上がると身を回す。踵が木根をかすめる。勢いで倒れそうになるが、腹に力を込めて体勢を戻した。腰を低くし、素早くあたりを見回す。他に獣の姿はない。動ける位置は少なく、木根は微塵もゆらがぬように大地を押さえつけているが、今は私の足を取ろうとする悪魔の手に見えた。足場は悪く、数歩先から夜陰が迫り、視界がきかない。夜の森を駆けたためしはないが、やるしかなかった。
短剣を引き抜くと、棺の上で片足であぐらをかく男の上に打ち下ろした。円筒形の柄には鍔と柄頭に滑り止め用の円盤がついている。勢いをつけて叩きつければ気絶させられる。武器も持たず、詠唱する気配もない男を切りつけるには迷いがあった。甘い考えであることはわかるが、少なくとも私はそこまでする意義を見出してはいなかった。
「なっ!?」
短剣を打ち下ろした。あっと言う間に終わる物事が、まだ私の前で続いていた。ゆっくりと下りていく短剣は余りにも遅く、いつまでたっても完結しない。馬鹿げている。私は筋力をみなぎらせ短剣を握ったまま、ただ掌をゆっくりと振り下ろしているだけだった。叫び出したかった。頭の中では叫んでいた。それすらも奪われ、男が先に笑った。機嫌よく笑ったのだ。私をみる瞳は透明な水をたっぷりと湛えて、息も絶え絶え煌めいていた。
「ふふ、血の気が多いことよ。ふふっ……、御しやすいといわれ慣れておるだろう」
男は跳ねるように棺から飛び退くと、裾を払って私の背に回った。私はまだ短剣を打ち下ろしている。
棺の上には誰もいないのに、私は私を止める事が出来ない。思うようにいかない体に精一杯の力を込めるも、目を刺すように見入るばかりで口の中で歯が浮く。それすらも遅い。怖ろしくてたまらない。目を必死に動かして裏に回った男の姿を捉えようとする。気配はすぐそこにある。思考は次第に安直になった。
(何が起こっている。何が…! 何が……! 理術をいつ掛けられたというのだ…!!)
記憶を遡っても男は詠唱をしていない。端から出てきた男は手首をしならせて扇をゆすっている。遠く鳥が鳴いた。私だけがはるかに置いて行かれていると知る。
「とにかく不自由であろうが、余の腰を打った咎だ。善意でやったいうのに……どうせ憑霊されるとでも思うたのだろう。不本意な噂話がつきまとって迷惑しているのだ」
何も喋れない。男はそうした様を見て、笑みながら片手を顔のそばに持ち上げる。ふたつの指をこすりながら弾いた。乾いた音が小さく鳴った。
「くだを巻くほどでもない。まあ、上を見よ」
ごり、と気味悪い音を立てて首が曲がる。強引にあげられた視界に、いっぱいの空。
端で揺れる木々は黒く、星の煌めく空を額のように飾っている。そこにあったのはいつもと変わらぬ、賑やかに過ぎていく日々を見送る夜だった。




