221 肉料理:----・------(13)
―――「お前は誰ぞ、名乗りや」
夜鶯が鳴いた。
不思議と物憂げな声色だ。言葉は私の胸を強く打った。私は誰だと問われることが、身悶えする歓喜を湧きあがらせる。ここに私を見てくれる人がいる。私は「声」のために一心に己を保った。しかし声は出ない。余計なものはすべて剥ぎ取られて、この世から断裁されている。
その声が近づいてきても「声」の行方を見る者はなかった。私にだけ聴こえるのか、煮ても焼いても食える距離でとうとう笑い声を聴く。嘲笑するようで悲しみを含んだ様子が気にかかる。どうにもならない自分の身より、「声」の中に感じる何かに胸がざわつく。私は"彼"を見ないでおくことは許せなかった。目を自ずと送り出して微か色づく視界の端から端を探った。どこにもいない。けれど、"そば"にいる。確信があった。私は心をかき起こして「彼」の声を探していた。
しゃらん、音が鳴った。彼の耳飾りが揺れている。
―――「声もでぬのか。情けない姿よ。向かぬことはするものではないと散々言った。致し方もない。静かに暮らせばいいと言ったのにお前にはお前の都合があると返したな。忘れるものか。裏切者、卑怯者、恩知らず」
(すまない)
―――「今更詫びてなんになる。お前のように生涯半分を過ぎれば叶えられなかった古い約束事がちらついて、結ぼうと必死になるのだ。己で墓を掘って、死の準備をしているとどうしてわからぬ……」
(お前が泣くことはない……)
―――「泣きたくもなる。お前の為の涙と思うな。余は…………余はな、お前が連れて行ってくれと一言でもいえば……口惜しい。この世は………………つらいのか? 責苦を味わえ、それが都合の痛みよ」
(……友よ。生きるとは……つらいものだ)
―――「……そうだな。我等はどちらも愚かよ。ディアリス………我が友よ」
繭をぐっと押し破り、私は"私"を掴んだ。眠っていたディアリス・ヴァンダールという名は愚直な男の体で現れた。負傷もなく、胴もつながっている。ならばと腕を伸ばして、掌で豪奢な重ね衣ごと細腕を掴んだ。光を宛てて体のあちこちを見る人々の間にしずかに立つ、友の腕を強引に掴んだ。
玉のような目が驚きに見開かれる。葦原の茂みの中で密か話に興じる女たちをたわむれに押し倒したような、胸を焦らす忍び笑いが耳をうつ。懐かしい柔い声、遠い記憶が由来していることは明らかだ。
―――「見送りにきてくれたのか…………何を。何を笑う?」
―――「ふふ、ふふふ。はぁ。笑いもする。余の罵りを聞いてやっと起き上がったと思えば、お前の姿は出逢った頃のままときた。どこどこまでも懐かしい面影よ……ディアリス、己が嫌になったか」
―――「それは」
―――「星はまだ落ちぬぞ、ディアリス。お前はまだ明日を見ながら生きているのか」
―――「その問いは……」
―――「好かぬか。ふふ、どちらを吐いても叱られてしまうと恐れてか。不機嫌を渡るお前は可愛いものだが、そう構えるな。余とて物事を切るためでも、心底哀れみたいわけでもない。ただ時がよいのだ」
―――「時……時か」
先程からかすかに匂っていた物憂さは、私を遠い記憶の中に連れ出した。黒々と湿った森に続く小路、崩れた墓石の端を覆う苔、空と山脈までも色褪せ、暗澹から星が浮かぶ宵の口。私はお前を見、お前も私を見た。呼び起こされる震えの源は、彼が言う通り"死の準備"を発端としているのだ。
「お前は誰ぞ、名乗りや」
その声はとても優雅で、扇に隠された口から零れ落ちるに相応しい妖艶さがあった。数多の花を飾り付けた衣に艶髪が泳ぎ、右膝に乗せた左足が重ねた衣を分けてすらりと伸びている。枝に腰かけ深閑とした森の中で王の役を務めているその者の頭上には黄金でできた蔦の冠があった。
ひとめ見たとき、私の瞳の中には恐怖があった。一言二言も喋ってはならぬと祖父より言いつけられた聖霊の類いかと思われたのだ。
聖霊は美しさで人心を奪い、魂をすする。生者から活力を奪って人を廃させることも、死者の体に付着した霊を取り去って天へ導くこともできるという。命の終わりと始まりをつくる者だ。しかし少なくとも上辺だけは、他者の物を何でも自在にできる特権をもった若い男のようにそこに在る。宵に一人でまみえるには虚ろで、気安い笑みは格の違いを強調し、私はどう答えるのがよいのかわかりかねた。苦みが舌の奥に乗って、唾を飲み込むにも苦労する。




