218 肉料理:----・------(10)
私は眠りから覚めているようで続きを見ているように思われた。最初にあった感受性は輪郭を失う。音もなくなり、体の感覚も薄れ、あるのは目の当たりにするものだけだった。
天使たちは励ますように唇を動かし、私の顔を覗き込む。私の体に理力を侵入させようと腕を伸ばしているが、空気中に露わになった光ほども感じ取ることができなかった。私がもし健常であれば、起き上がって身を慮ってくれる彼らに微笑のひとつでも贈ろう。しかし台本からはみ出すことは許されず、視神経を感応させることしかできないのだ。考えてみれば怖ろしいことだが、私は沈着して夢想にふけっていた。私は劇場に均等に並ぶ席に座り、舞台を見つめているだけの観客であり、一方では命の危機に瀕する老いた男だった。
さて、天使たちに話を戻そう。右方にいた三人が揃って下がり、今度は水瓶を握った天使がそばに立った。硝子瓶の中は水剤だろうか、透明な水が淡く光っている。天使は瓶に指を浸した。それを見たとき、自分が何千とおこなってきた行動を思い出した。理力を浸した水で、額の中央に小さな曲線を描く破魔の儀式を行おうとしている。
私は指先一つ動かせず、何の感覚も持ち得なかったが、顔の上に影ができて、指が触れる直前に額に落ちた水が、頭蓋骨の丸みにそって落涙していくのを明確に感じることができていた。降雨のはじまりの一滴のように、優しく降る雨が私のこめかみを湿らせる。思わず空を窺いたくなる私を、柔く押しつける指が不甲斐なく波打つ皮膚をつつと撫でる。違和感を得た。元はのびやかだったとまでは言うまいが、牡蠣殻のような肌だ。顔の半分か、少なくとも額の半分は損なわれているのだろう。私はそこまで死に瀕しているのか……。細い雨のような独り言が浮かんだ。
額につけられた龍の印は、私を苦痛から遠ざけようという彼らの意思と、手の施しようもなく私の体が陥落していることを報せている。しかしそれらの事実は私の感覚の外にあった。私は黄ばんだ天井画に浮かんだ叢雲をぼんやりと眺めて、かつての色合いより今の方が私の嗜好に合っていると心を汲みつくすことに専心した。
(…………終わりか)
雲間にさめざめとうかべる。痛痒を感じるかと思えば異なる。どうやら体同様に心も麻痺しているらしく、感慨は訪れない。それどころか私よりも苦痛に顔を歪めている天使たちのことが気にかかる。
口をきつく結び、常服の前を濡らして声もあげずに泣いている。見下ろす天使たちはとうとう前屈みになって顔を覆った。絹裂きの泣き声が容易に想像できるが、耳を緘している私は直情に身を委ねる彼らに胸奥をくすぐられはしなかった。
『どうしても理力が弾かれる…! これでは……』
『神よどうして拒まれるのです、どうして……!!』
『理力が底をつく。交代を!』
『よせ、もう』
『それ以上申すな!』
『諦めてはなりません。私は諦めません。どこへでもついていくと誓ったのです。こちらに集中してください。』
『廊下に光源! 理力発動です! 赤!』
『突破されるぞ! 緑式を展開! 壁をつくれ!』
『隔てよ!』
『縺れよ!』
―――轟音、扉が強引にひしゃげる、白煙、叢雲が流れていく
『だめだ、隔てよ!! 隔てよ!』
『場を穢すな! 埃も瓦礫も外へ出せ!』
―――白煙の向こうから大男が分け入る、不行儀な男に天使たちは合図を出しあう。男は暴れ牛のように埒が明かないように見えた。
『廊下は制圧したぞ! 誰がこのようなことを! お前たち、大主教に何をしているのだ!』
『それ以上来てみろ! 我らを妨げるなら、こちらとてやる事をやる』
『そなたらは何がしたいのだ、この方は治療にあたろうとしていたのだぞ!? 台を濡らす血を見よ! 滴り落ちる血を補っていた、でなければ生きるのに必要な血が不足するからだ! だというのに、それを…!!』
『お前たちこそ考えが浅い! 血を補うという禁忌を平然と口にして、それでは魂は穢されてしまう! 間違っているのはお前たちだ! 治療を任せられるわけがないだろう!!』
『なにを……それでは生かしたくないといっているのと同じではないか………なんという理屈を……本気で……?』
『知れたこと! 禁忌をおかす者すなわち背教者である! その者を捕えよ!』
『馬鹿なことを言うものではない! ちッ、大人しくならん覚えはないッ!』
―――術式の赤い光が天使の手に集う。自分たちの思うことをやってやり抜こうとする熱がある。しかしそれを止めたのもまた憐れな声だった。




