214 肉料理:----・------(6)
プロネーシスは常凡な感受性なりに"宝石"の意味を推し測ろうとしていた。
龍下が口にした資質を持つ人がいるとして、そういった人と巡りあうことができれば想像することもできない歓喜が訪れるのだろう。しかし龍下の言葉はただの願望の表現ではなく、触れているのとほぼ同じ味わいを持った熱狂を感じさせた。喜ばしいことだ。敬い、愛し合うことが死すべき生命の最大の夢だという人もいる。
頭ではそう分かっているのに、胸の内によどむ何かが言い知れぬ不安を煽るのだとプロネーシスは綴っていた。獄舎を背中にしばらく立ち尽くし、やがて龍下の過ぎ去った角に、白線が引かれていることに気づいた。その落書きは壁面を横長に使って線描され、盛りの草花の奥に隠れるように在った。
同じ場所を繰り返しなぞり描かれた大小様々な円は形容する物もないほどに歪み崩れていたが、一本の白線につながれ浮き上がるのを制されているようにも、綾糸にかかる鈴のようにも見えた。何故だか、どうしても描かなくてはならないという気持ちのちからが込められているように思えた。
ちらと手前の草に目をやると、壁に沿う草の並びが落書きの手前だけ妙に大きい。地面にいずれかの足跡があった。靴の跡ではなく人の足の跡だ。
足の向きや土に混じる粉末からも落書きをした者の足跡だろうとは思うが、プロネーシスは思わず草の匂いの中に膝を折った。自分の足よりも小さな跡に指を這わせる。さらさらと葉が擦れ合う音がそぞろに身に沈む。獄舎守の足音が近づいてくるまでプロネーシスは薄く刻まれた足跡を見ていた――――小女の足跡を。
――
『アーデルハイト、貴方への文をしたためる今、私は怖ろしいと思うことを幾度躊躇った事でしょう。貴方もご存知のとおり、私は教会にひどく愛着しています。常にそこから一歩離れた思考をとることができないのです。そう心がけていても、どうしても幻滅するほどに。執政官として私は龍下を内外から支えなければなりません。龍下はとても自然に人々に心を寄せられます。全体を包む輝きは崇高でしかなく、微笑まれれば私でも浮かれ騒ぎたくなってしまうほどです。それなのに私はあの方を覆う光の向こうを知らないのです。それどころか光の膜の向こうにあるものが怖いとすら思うのです。あの方は流れる白い雲であり、白糸のように滑らかで、するりと遠ざかり近づくことができません。惨めでたまりません。本当に幻滅しますね。人は人に対する大きな誤解が元で諍いを起こします。だから私は龍下を知らねばならない。貴方は良く努めていると褒めてくださいますが、薄々気づいていらっしゃるのでしょう。あの方を知りたいと思うのと同じくらい、永遠に知りたくないと思ってもいることを。
―――アーデルハイト、こうした戯言に耳を傾けてくれて嬉しく思います。月夜と顔を合わせ、悶々とした気持ちを綴る私をいつも楽しませてくれてありがとう。私だったら、このような黴の生えた手紙は一読して破り捨てるところですが、貴方は三読してくれるというのですから、嬉しくもあり憐れにもなってしまいます。私のような不幸な玩具を気に入るのはやめてください。誰の為に嘆いているのかわからなくなってしまいます。
ご多忙が響いて体調を崩されたばかりなのですから、お返事は貴方の声を聴かせてください。ただし、お逢いするのは教務の都合上仕方なくということをお忘れなく。御身ご大切になさってください』
(君は……君は知らなかったのだな、プロネーシス…………獄舎に通ずる道にあった奇怪な絵を……小さな足跡を……いや、それが狂気の兆候であると誰が見抜けようか……留意すればいいなどと気楽に言った私を許してくれ……君の方が余程抜き身の真実のそばにあった……)
――――"何者にも傷つけられず、目が眩むような美しさを持ち、誠実で、誰にも屈せずに純潔を守り続ける"。その幻想を口にした龍下は、プロネーシスの向こうに少女の姿を見ていたのだ。当時の彼と交わした独白が、平然ともたらされたうわ言に返り読まされていく。アーデルハイトの足元を虫が這いあがり、光の消えるまなこまでも埋めていく。掘り返された生々しい気持ちの中には遮断したくなるような情けない言葉が散見された。己の言葉が刃となってアーデルハイトの心に沈む。
「…………………」
"宝石"は龍下の手を離れた。
扉の向こうに消えた姿に、アーデルハイトの心にあとからあとからつぶてが飛来する。後悔や懺悔は瞼の裏に滲む。そんなものから離れるようにアーデルハイトは侍従たちの顔を反問するように眺めた。彼らの目は男を内面から支えようとする力に溢れていた。答えは己で導くものだと壮年の男は新しい指示を口にした。
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