211 肉料理:----・------(3)
少女は座したまま、膝に拳を置いた。大男から落ちた視線は起伏の無い床に捧げられ、指先は何くれとなく絨毯の世話をする。ロラインは急かすことなく隣に座して、少女の存在から発せられる柔らかい光を心の中へ持ち帰った。
面紗の裏に隠れた唇は、薄く開いて閉じるを繰り返していた。手は前方に伸ばされたと思えば、肘が開ききらぬうちに戻される。青年を求める面差しの中に自身が望む意がないことはわかっていた。そのような小さな棘は、棘にならぬうちに消え去る。もう一度声をかけると、彼女は初めて本質的にロラインの声を聴いて、顔を傾ける。それが例え、傾けると目を開閉する人形のような反射であっても構わなかった。湖上で舞う美しい影はいま、何の工夫も加える必要のない顔貌を面紗に寄せている。
「彼を安全な場所に連れていく……君も一緒に連れて行きたい……いいか」
抑揚をおさえ、怖がらせぬようにゆっくりと教える。彼女は微笑しながら手を伸ばした。ロラインの首に簡単にからみつき預けられた体は、それが我が身を守るために得た習いであると思うと焔を飲み込んだように顔が熱くなった。
者どもに惹かれるに惹かれて精を尽くして倒れついた娘は、人として扱われたことがあったのだろうか。理力や不死などの突飛なものを携えてしまったばかりに、朽ち果てることも叶わず、かえって男が二人白髪を散らして倒れている。いずれにも、耳元で舌足らずに青年を呼ぶ痛ましさを知っただけだった。単語にもならぬ言葉は純粋な動機を教え、ロラインは黙って娘を抱き上げた。丁度運び出される愚か者どもを道中見て、呼ばれるように少女は顔を向けた。見た目には何のおどろくこともないように思えた。けれど漏れ出た小唄が子守歌であるとわかったとき、律儀な娘を抱く男は、娘を使役したすべての死にざまを頭に描いた。
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「閣下!」
赤の間より戻ってきたメルカが人波を躊躇うことなく進み、アーデルハイトの元まで駆け寄った。理力の光を追随させている大主教の肩越しに素早く報告を済ませる。
周囲に読ませぬように隠した口は、龍下が赤の間で受血を開始したことを話した。理光を受けていかにも神経質な怒り顔が照らされるが、アーデルハイトの目は禁忌を見過ごす事に対する不安を感じ取った。
頷き返すと、頭にとりつく観念を選り分けてメルカはしっかりと気を保った。細い首には上級護衛官の証の格子柄の襟締が結ばれ、直立した姿勢とともに彼女の高潔さを印象付けている。
「執政官が口を揃えて言っていた。龍下が首都をお出になると災いが起こる。その予兆がでていると。大会開催を輪番にするのではなくアクエレイルに定めてはどうかと政務部一丸となって進言したが、龍下は神の守りと真実があると言って頷いてくださらなかったという。私の元には龍下からも、目付け役のプロネーシスからも文がきていた」
「……どうしてこのような事に。あれほどの下劣な行為に誰も気づかなかったというのでしょうか。嫌悪を覚えます。龍下は…………申し訳ありません、軽々に申しました」
「続けてくれ。私もいくらか思考を整えたい」
「……いけません。私であれば首を挿げ替えるだけで済みますが、閣下は何も口になさってはなりません。今、お考えのことは何も」
アーデルハイトの顔にやや皮肉な笑みがのった。
「私も加担していた」
「そうではありません」
「では何だ。根元が腐っていたのだからこうまで一挙に崩れたのだろう。養分を吸い上げ、葉は茂り、花が咲いていた。美しいと見上げながら足元は血にまみれていたと、それを知らなかったと……何ら労せずに言う事はできない……」
「わかっていらっしゃる筈です」
「……あの青年こそ成すべきことをわかっていた」
室内に残る臭気は、乳鉢ですり潰すように潮風と血を執拗に混ぜ込む。鼻を刺す生臭さの中で、誰かが死ぬことよりも、生きている命に目を向けなければならない。
絨毯を踏みしめる足の向きを変えると、メルカは横に移動した。他者からの視線を遮ろうとする女なりの気遣いだった。
「メルカ、君の隊には全領地の教職者の統轄を任せたい。負傷者の対応をしているセミフォンテを呼び戻して、彼に中央区の司祭八名と共に各領地の上三位をまとめ役をさせよ。被害の確認と市民の誘導が最優先だ。その為には集団を数量的に見る彼の学と知識が役立つ。人の良さもな。彼は拒むだろうが、いい加減人を使う事を覚えてもらわねばならない」
「過剰な期待だとは思いますが、一語も漏らさず伝えましょう。記者たちは別室に留めておりますが、今日のことはどのように」
「負傷していない者は帰してよい。真実を書くことも止めてはならない。どちらにせよ民衆は今日の事を口伝や公器を通じて耳にしても飲み込むことはできないだろう。実際にあの少女に想像もしない理力が宿っているとしても、特権を得てきたのは一部なのだから。存在しない奇跡でしかない」




