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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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210/416

210 肉料理:----・------(2)

「レーヴェ!」


大柄な男が滑り込んできて、膝に頭を擦りつけながら震える青年の顔を覗き込む。横切ってきた男はどうやら青年の父親であるらしい。


「レーヴェ、どうした、レーヴェ! 痛むのか、どうしたどこだ言ってみろ」

「ちちうえ、…父上、……からだがおかしいのです」


背中に火矢が突き刺さったというように背中を丸め、地面に突っ伏す青年はまた唸り声をあげた。治癒術の効果がないことは明らかだった。

ロラインは後ろを振り返った。駆けまわる教職者たち、地面に身を投げる龍下の治癒にあたるシュナフ、体力が尽きてもたれ掛るヴァンダールを侍従に預け、立ち上がった男を呼ぶ。


「アーデル! 彼らを移動させる」

アーデルハイトは「なに? 彼らとは」と進み出てきて、脂汗をにじませる青年を見て頷いた。


「各々よく聞け! 赤の貴賓室にて治癒術式の展開が済んでいる。龍下を速やかに理力搬送せよ。指揮はシュナフが取り、治癒もシュナフ領の者があたる。ヴァンダールは翡翠の間へ。気短の愚か者の監視はホルミス領がおこなう。申し開きに耳を貸すことは許さぬ。また謀反談義の一切、龍下が快復せぬまでは禁戒とする。色つきの執行官は私の元へ来い! 編成を組み直す。つづけて、全領の聖徒に告げる。我らは龍下に忠誠を誓っているのではない! 己の聖なる心を今一度見つめよ! 意味を(かい)せぬのなら口を噤め! これ以上無用な血を流させるな!」


「白磁の間を使え」とアーデルハイトは踵を返した。

青年は苦痛に湿った目を上下させた。軽く首を傾けるだけで走る戦慄に、歯を食いしばり耐える。彷徨う指を、白の手袋が包んだ。尻もちをついてへたり込んでいた少女は、わめき散らす集団などには一向意に返さずに吃音まじた声をかけた。


「だ、だ、だ、だい」


青年は慈愛に溢れた笑顔を見せて、少女を安心させようと甘く滑らかに頷いた。周囲は一瞬、この余りに啓示的な光景にのまれた。荒廃を埋める闇色を土壌に、踏みにじられても咲く白い花が青年の指を額にすりつける。貧弱な青年は重心を傾げてまで、少女のされるがままになまめかしく動いてやった。面紗の下から覗く淡い唇がちらと指をつまんだ瞬間、二人は示し合わせたように笑みをこぼした。


ロラインはあれこれ考えぬわけではなかった。置き所もない寒気を増した邸で、何もかも離れた世の片隅で、罪過だけを見つめて生きてきた。心はつねに白霧けぶる湖面のように、寒く見通しがきかなかった。自分の脚に枷がついて、途絶し、どこへも行けずに苦しみ続けていた。それが自分の背負う罪であると思っていた。繁雑な教務のあいまに露台や窓辺に立つと、湖を這う霧の中に娘の姿を見た。裾を広げた可憐な人影は、いつも白鳥が飛び起つときに消えた。湖上を見つめることは、娘と交わす無言の対話だった。長い手紙を綴っても、いつも白紙だった。それでも娘は舞いを見せてくれた。湖上を揺らめく影は、舞踏場での練習を見学した日を思い出させた。ほとんど終盤に顔を出し、去り際に恥ずかしくなかったですかと尋ねてきた声は大人びていて、白い頬にさす朱だけが幼かった。なんと答えたか覚えていない。気の利いたことは何一つ言ったことはないのだから、そういう事だ。白鳥が飛ぶ。己の心が見せる幻だとわかっていても、心から暗闇をもぎとることはしなかった。


「れーう、え」

「うん……だいじょうぶ、もうだいじょうぶだからね……」


青年の名を呼ぶ少女の姿は、やがてのぼる陽のようにロラインの展望を開いた。ながく願い続けた夢が容赦もなく明確な形として情景をもたらしていた。彼女の思考や行動を踏みにじることなく、すべて叶えてやりたいという青年の健気な思いが見守る周囲に伝播していく。それはあの日ひしゃげて進まなくなった時の汐が、息をふき返したことを表していた。今再びロラインの邸に、白と青の庭に、湖畔の小さな宮殿に、すべてに色がついていく。花盛りの庭で振り返る娘の顔が鮮明に見えた。寒さに負けじと大輪の花を咲かせる美しさに足を止め、瑞々しい花弁をゆっくりと撫でて微笑んでいる。青年とロラインは、目離れ(めかれ)ることなく一人の少女を見ていた。


すると対座していた大男が青年の腹に勢いよく頭を埋めたと思うと、手に盆をひらめかせるように一息に息子を抱き上げた。さしもの青年も咄嗟に少女から手を離した。いかつい顔つきは鳴りを潜め、大男の目は動揺に水を張って今にも零れそうだった。不安を蹴散らすために張り上げた大声が喉をあがってくる。喉頭の骨の動きでよく見えた。「だいっ、大主教ッ!!」割れんばかりのがなり声に後ろで群衆に檄を飛ばしているアーデルハイトの腰が折れる。「俺か!? 違うな!? 俺よりでかい声を出すな!」と地声が聞こえる。


「……そなた、名はなんと」

「はっ! バティストン・フロムダールと!」

「バティストン、君の子を治療する。付いて参れ」

「はい! どこまでも!」


バティストンを見上げる少女は胸の前に手を合わせて、わぁと言った。ロラインは口腔にたまった唾を嚥下し、紫紺の帯を折って少女のそばに膝をついた。

痩せたか、ちゃんと食べているか、――衣服を着込んでもなお細い体に由もないことばかり浮かぶ。


「……君を……………連れていって構わないか」






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