21 弱みにつけ込む時と、
あれこれ迷わずにあっさりと難題を乗り越える目が翼からさっと逸らされ、流れた。ブラットは彼女に染みついて離れないしがらみがそうさせるのだと知っていた。だからわざと花を彼女の視線の先に置いている。
目論み通り彼女の思考は花に寄せられ、その瞳が微かにほどけたのを見届けてからブラットは窓の外を眺めた。
出窓の向こう、アクエレイルの空は全体的に澱んで沈んでいる。雨の降る気配を肌で感じると、思わず高揚してしまった。
ブラットは何も見えない霧の中を飛ぶのが好きで、天気は崩れれば崩れる程よかった。青空など気の滅入るものでしかない。きっと彼女もそうなのだろうと確信があった。
「換えてますよ、俺が、ちゃんと」
花を眺めていた視線とは随分と違う、気の強い視線を正面から受けて、A・ブラットは耐え切れぬように喉の奥で笑い始める。
リーリート・ロラインは「言葉に範疇外の意味を込めるな」と怒ったものだから、その口調に笑いを重ねてしまうだけだった。
「はぁ」と、翼で胸を抑え、楽しさを一旦落ち着ける。
「何か食べに行きませんか。ここの裏をいったところに良い酒場を見つけたんです。ほこりと、酒臭さと、料理の湯気が混じりあう。店を出るころには満たされた気持ちになれるようなところです」
「魅力的だとは感じる」
「でも遠慮するって? じゃあ研究の進展具合はどうですか。最近また新しい術式を開発したって話ですけど」
「喜べるものではない。未だに開発されるということは、研究が足りていないということだ」
「はぁ。告解祭には本当に参加しないんですか?」
「しない。その話は雑談の域を出る」
「幼い頃龍下様に花冠をさしあげたって話、ご本人からもう何十回と聞いてますが参加しないとなると、さぞ落胆なされるでしょうね」
「綺麗な花が咲いていたから作っただけのこと、ブラット」
「告解祭に合わせて執行部が巡礼から戻ってくると噂ですが、それについて公式の場で何か御言葉はあります?」
「ブラット」
「高慢な少数民族の村で、死にかけていた四枚羽の男にどうして情けをかけたんですか」
そういう時だけ苛立たし気に伏せていた目を、すっと合わせる。時が経とうとあの時と同じだとブラットは目を細めながら受け止める。
その視線だけで十全に説明され得るが、ブラットは言葉にして欲しくてたまらなかった。
そして彼女は誰かが望む欲の前では、決して逃げはしない。
「最善を尽くそうと思った」
個人が多方面から迫る危険に際しながらも、目の前の魂を救い出すことを選んだ。あの時、二人はお互いの為だけに存在していた。ブラットは、その瞬間をいつまでも胸に抱いている。
いつもは気だるげで冷めているブラットの顔に特大の笑みがにじみ出た。一切視線を外さず、溶けるような目で自分の運命を見つめている。
真面目な顔を崩した彼女は眉間を揉み込むと、特大の溜息をついて長椅子に背中を沈めた。彼女に翼があったなら萎れているだろうという程にがっくりと肩を落としながら。
「わかった。期日はわからないが食事に行く。だが今からは無理だ、予定がある。疑うな、面倒だ」
「わぁ! いいですね、いいです。それで充分です。あ、でもだからといって顔を見せにくる回数は減らさないでくださいよ。いつでも飛んでいけるんですからね」
「……以前も言ったと思うが、研究所にはくるな。羽は毟られるし、最悪解剖もある」
「勘弁してください。でも貴方を浚うだけなので簡単ですよ。じゃあ、必ず近いうちに。絶対ですよ。ね。」
片手が払われる。もうこの話題はやめろ、の合図だ。
やはり彼女は自分の内側に入れたものに極端に弱い。自分にこれなのだから、さぞ他の者も甘い蜜を吸うのだろう。だから食事に誘う程度で目くじらを立てるような男は器が小さいと自白しているようなものだ。そして彼女の後ろに控えたまま無表情を崩さないでいる者もまた度胸がない。
会話が途切れた合間に、扉が控え目に鳴った。許可を出すと、角持ちの忠僕が包装した土産を台座に乗せて入室する。
彼女もまた長椅子から立ち上がったので、呼び止めて手土産を渡した。
「献上する塩だろう?」
「全量じゃないでしょうし、多少減ったとしても貴方も味わったと龍下が知ったら喜ぶだけですよ。それにこれを研究に使ってみたいって顔に出てました。合っているでしょう?」
彼女は少し苦い顔をしたが、受け取ってくれた。
来た時と同様に硝子の器に入れられた植物の前に立つ。澄んだ水の中に理力が蓄積された鉱石が沈んでいる。彼女の理力に反応して石が淡く光りはじめると、転移術式が彼女の体(と、度胸のない男の体)を包むように広がった。
「俺の郷では」
彼女が白髪を流し、振り返る。その手をすくい取って口に近づける。
すぐそばで殺気立った気配がある。隠し通せないことを笑ってやりたい。
「成人前に種を蒔く習わしがあります。もし良く育てば幸運に恵まれ、良き伴侶を得、良く育たなかった場合は不幸になると信じられています」
硝子の器の上で、大輪の花が咲いている。貴方がくれた花――だから、
「ご帰宅をお待ちしてます。我が伴侶」
手のひらから彼女の重みが掻き消える。手の甲に口づけしながら見つめた彼女の顔は、これでもかというほど歪んでいたので、ひとりになったブラットは顔を抑えながら笑い声をあげた。
「あは、はッ! ふ、くくっ……ふっ………あー、すごいなぁ………はぁ……」
あぁ、飛びたい。今すぐに霧の中に吸い込まれたい。
出窓を叩き始めた雨音がブラットを誘う。窓を開けて雨の匂いを吸い込むと、窓枠に脚を掛けた。




